真っ暗というよりも、深い青に見える夜。大きな満月の光が夜を青くしているんだろうな、と渡辺由布子は思った。そんな青い夜に五年ぶりに集まった五人の男女は、同じ映画学校の夜間部の卒業生だ。
業界での仕事は終わる時間も不規則だということで、夜の八時に設定した集合時間に集まったのは由布子と平澤達也の二人だけだった。結局、五人が顔を揃えたのは学生時代によく通った居酒屋の閉店時間ぎりぎりの十一時前。ちょっと学校に行ってみいひんか、という平澤の声にみんなが従ったのは、まだ話したりないという気持ちがあったからに違いない。
結局、学校の校舎の脇にある非常階段を上がり、屋上へと出た。周囲にはそれなりに高いビルもそびえてはいたが、さすがに屋上まであがると空が広く気持ちが解放されるような気がした。
学校に行ってみいひんか、と平澤が言ったときには珍しく気持ちが高まるのを覚えた。由布子はもっと純粋に話したかったのだ。
映画の学校を出て、映画の業界に飛び込むこともせず、いつかは自分の映画を撮るのだと思い続けることも難しく、最近では映画館に足を運ぶことさえ避けるようになっている。そんな自分自身のいまを誰かに聞いて欲しい思っていた。もしかしたら、映画学校の仲間と再会することで、また自分の映画が撮れるのではないかという期待も持っていた。でも居酒屋ではそんな話はこれっぽっちも出なかった。由布子も自分からそんな話をすることができなかった。
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「五年ぶりに集まらへんか」
と電話をしてきたのは岡崎恭平だった。恭平は映画学校の夜間部の五人の仲間の内、いちばんの年上で、入学時にすでに三十七歳だったから今は四十二になっているはずだ。
「なんかな。昨日久しぶりに深夜のテレビでナベちゃんが好きやったフランス映画やってたんや。それ見てたら、なんやみんなに会いたなってなあ」
岡崎は大学を出てから役所勤めをしていて、妻も子どももいるのに映画が撮りたかったんや、と映画学校の夜間部にやってきた変わり種だった。その年の夜間部の最年少だった由布子とはひとまわり以上も歳が離れていたが、映画の好みはいちばん合う相手だった。
由布子と岡崎は、自分たちがそのフランス映画を真似て撮った小さな映画の場面の話などをして電話を切った。
夜間部に入学したとき、由布子はちょうど二十歳だった。中途半端な私立大学を一年で中退して、やっぱり好きな道で生きていこうとアルバイトでお金を貯めて、映画の専門学校へ入学したのだった。昼間働いて夜勉強がしたいと思ったわけではない。ただ、夜間部の学費が安かっただけのことだった。しかし、結果的に、年齢的にもばらばらな学生が集まる夜間部は、由布子にとってとても面白い二年間になった。
卒業するまでに由布子は四本の映画を撮った。十六ミリのフィルム作品が一本、ビデオ作品が三本。どれも、二十分に満たない作品だが、ひとつ一つに想い入れがある。
五人が忍び込んだ学校の屋上も、かつて由布子が監督した作品のうち二本に登場する場所だ。夜の撮影はしたことはなかったが、こんな青い夜空を背景に、男と女が別れ話でもしているシーンが撮れたら面白いだろうな、と由布子は思っていた。
「けど、ほとんどの同期が業界を離れてるとは思わへんかったわ」
岡崎が本当に驚いたように言う。
「ほんまやなあ」
そうのんきな声を出したのは、由布子より二つ年上の桑原ゆかりだった。ゆかりは、撮影が押して緊張感が走る現場でも、のんびりとした空気で場を和ました。
「結局、五人の中で、いまでも撮影所で撮影の仕事をしてるのは高橋くんだけね」
ムードメーカーだったからこそ、ゆかりは卒業後もみんなから仕事や恋愛の相談に乗っていたらしい。
「岡崎さんは最初からちゃんと仕事してたからええけど、それ以外で業界に残ってるのは高橋君だけって、不思議な感じがするわ」
由布子がそう言うと、平澤が大きくうなずいた。
「そやろ。高橋なんて撮影中いっつも文句ばっかり言うてたからなあ」
平澤が大げさに言って笑う。
「そやけど、それは高橋君が、学校におる間も真剣に撮影に取り組んでたからかもしれへんなあ」
岡崎がそう言って、みんなが少し静かになる。そうやんな、という顔で岡崎は由布子に同意を求める。
「そやで。高橋君、なんやかんや言うても、現場が好きやったからな」
卒業以来、アルバイトで食いつないでいる由布子は、そのアルバイトが先週で契約切れになったのだった。
最近の由布子は何をしてもうまくいかない。卒業してから二年間続けたCDショップはネットの通販サイトに押されて閉店してしまったし、心機一転、映画に近いところで働きたいと勤めた映画館は、シネコンになってしまい人件費削減でリストラされてしまった。みんなも似たような状況ではあったが、由布子にはその中でも自分が一番ついていない気がして、居酒屋で飲んでいる間、ずっと自分の近況を言い出せずにいた。おそらく、仕事だけではなく、付き合っていた男との別れや、父親の死や、同い年の従姉妹の結婚など、ここ数年、心をざわつかせるような出来事ばかりがあったせいだ。そう由布子は思っていた。
「そやけど、俺は自分が卒業する時に思ってたこと、なんにも出来てないわ」
ふいに平澤が言う。
「思ってたことって?」
岡崎が聞き返す。
「年に一本は短編でもええから映画を撮ろうって思ってたこととか」
平澤がそう言うと、みんなが少しずつそれぞれに遠慮がちに視線を送る。
「そういうたらそうやなあ。みんなで集まって映画撮ろうって、言うてたなあ」
岡崎がそう答えると、
「ま、なんとなくこんな感じになるかなあとは思ってたけどね」
と平澤が苦笑する。
「あんたは、いっつもそうや」
由布子は平澤に低く声を荒げる。
「なにが?」
「なにがって。あんたはいっつも、そういう嫌なことをいうやろ」
「嫌なことって、ほんまのこと言うてるだけやん」
「ほんまのことなら、何を言うてもええんか」
由布子の剣幕に、達也は黙ってしまう。
「ナベちゃん、そんな怒りなや」
年長の岡崎が取りなそうとする。由布子は平澤の隣から、いちばん離れた岡崎の隣に移動する。
「ナベちゃんらしいなあ」
ゆかりが、そんな由布子を見て微笑む。岡崎も由布子を見て笑っている。
「そうやねん。ナベちゃん、撮ったカットが気にいらんかったらすぐ怒るしなあ」
「けど、ええカットが撮れたらニコニコしてなあ」
自分を話題にされて、居心地の悪そうな由布子。
「あんたら、私の話はやめてえな」
「いやいや、相変わらずナベちゃんは可愛らしいわ」
岡崎が少しからかうように言うと、由布子が、「しばくぞ」と本気ではなく毒づく。
そんな由布子を岡崎は愛おしそうに眺めて笑う。
「そしたら、俺はそろそろ帰るわ」
岡崎がそう言うと、由布子が慌てる。
「なんで、もうちょっとおれるんとちゃうの」
「俺、明日仕事、朝早いねん」
岡崎がすまなさそうに言うと、ゆかりが
「そしたら、私も一緒に帰るわ」
と同調する。
「私もアルバイトがあるから」
と言うゆかりを岡崎が笑う。
「アルバイトって、歳いくつやねん」
「ほっといてください〜」
岡崎の質問に、おどけて答えるゆかりも、なんとなくいまだにアルバイト勤めであることの羞恥のようなものがあり、ただ可愛いだけの女の子ではなくなって、人の暮らしの中のよどみのようなものが見えるようになったなあと由布子は思ったのだった。しかし、由布子はそれがむしろゆかりの味のようなものになっているのではないかと思えて、微笑みながらぼんやりとゆかりを眺めていた。
みんなが帰ってしまうと、由布子と平澤だけが屋上に残った。相変わらず、空は濃い青色をしていて、手すりにもたれて眺める空のど真ん中に大きな満月が黄色く浮かんでいる。
「さっきはごめんな」
「ごめん言いながら笑ってるやん」
「笑ってないよ」
「いや、笑ってる。だいたい平澤は、ほんまに人の心に遠慮なしに、土足で踏み込んで、それに気付かへんねん、昔から」
「そうかなあ」
「そうやねん。そやから、みんな映画とか撮ってへんなあ、なんて平気で言えるねん」
「平気やないよ」
「そうかなあ」
「俺はナベちゃんが映画を撮るなら、手伝うつもりやし。な、また一緒に撮ろうや」
「撮ろうやって、サラリーマンが手伝えるわけないやろ」
「いや、手伝う。仕事を辞めてでも手伝う」
「うわっ。何いうてんの、それ。頭悪いわあ。嫌やわあ」
「頭、悪いって」
平澤は笑い出してしまう。
「なに笑てんねん」
「いや、なんかもう渡辺らしいなあと思ってな」
「笑うな」
「笑うわ」
二人、顔を見合わせて笑っている。
「だいぶ、平澤らしい感じになってきたな」
「そうか。なんか五年ぶりに会うって、緊張してたんかもしれんなあ。やっとリラックスしてきたんかもしれん」
「遅っ。リラックスまで、どんだけ時間かかってんねん。あんたはずっとそんなふうに、人の気持ちも考えんと笑てたらええんや」
「はいはい。そうさせてもらいます」
由布子、平澤を眺めながら居住まいをただしてみる。
「なんか平澤くんも調子出てきたことやし、学校の中に忍び込んでみよか」
「よっしゃ、忍びこんだれ!」
二人、芝居がかった声を上げて、屋上から外付けの非常階段を降りはじめる。なるべく足音を立てないように階段を降りながら、平澤が小さく鼻歌を歌う。
「それ、私の卒業制作で使ってた、ドビュッシーの曲やん」
由布子は、前を行く平澤に声をかけてみたのだが、平澤には聞き取れなかった様子で、問いかけには答えず、そのまま階段を降りていく。由布子はその後ろ姿を眺めながら同じように階段を降りて、校舎の裏側にある地下へと潜る階段から、夜の学校へと忍び込んだ。
■
由布子と平澤は、学生時代によく一緒にこもっていた編集室の扉を開ける。
「相変わらず不用心やなあ」
「ま、私らにとったら編集機はお宝やけど、一般の人はこんなもんもらってもどうしようもないからね」
「そらそうや」
そう言いながら、二人はフィルムの編集機を懐かしそうに眺めている。
「ビデオ機材増えたね」
「そらそうやろ。今どきフィルムやる奴も少ないと思うよ」
平澤はフィルム編集機の前に座ると、電源を入れてみる。薄く赤い光がともる。由布子もそこに座り、じっと光を眺めている。赤かった光がゆっくりと橙色になる。
編集機の上に、十六ミリフィルムの小さなリールが出しっ放しにしてあり、由布子がそれを引っ張り出す。
編集機を照らすうっすらとした光の中に、フィルムを掲げて、そこに定着された映像を見つめる由布子は、フィルムを上下に送りながら、映像の動きを眺めている。
「私はフィルムの質感が好きやけどなあ」
「そやけど、卒業制作、ビデオで撮ったやん」
「それは、カメラの高橋くんが『フィルムの質感よりもビデオの機動性が今度のお前の作品にはあってるんちゃうか』って。そういうたんやもん」
「出た。すぐ人のせいにする」
「人のせいにしてないよ。最後は自分で判断したんやから。そのくらいのことはわかってます」
そう言いながら、由布子は笑う。笑いながら、目の前の十六ミリフィルムをまた眺めている。学生がテスト撮影でもしたのだろう。フィルムには学校の近くのビル群がただ延々と映し出されている。じっと目をこらして眺めていても、露出が暗く、ピントも中途半端で、何より構図がずれていて、何を写したいのかわからないカットが続く。そんな、ただフィルムを回したのだ、という結果が目の前に定着されている。由布子にはそれがとてもうらやましいことのように思え、同時に、とてもくだらないことのようにも思えた。
最近になって、由布子は考えるようになった。いくらフィルムを長く回しても意味はない、と。長い間、フィルムを回しても、ビデオを回しても何の意味もない。問題は、きちんとラストまで撮れるかどうかだ。どんなに短くても、きちんとラストまで撮られた作品はきっと自分自身の明日につながる。それは、映画だけに限らない。小説でも絵画でもスポーツでも同じだろう。テニスの素振りだけを繰り返しても意味はない。うまくはなるだろうが、コートに出て勝負をしなければわからないことがたくさんある。
数週間前、同窓会の誘いの電話をくれた岡崎と昔話をしながら、由布子はそんなことを考えたのだった。岡崎が、由布子の映画の趣味を誉めてくれるのを心地よく聞きながら、その心地よさが由布子から映画を引き離してく感覚を刻みつけられたのだった。
その点、いま目の前にいてぼんやりと編集機材を触っている平澤には、昔からいらつかされたことはあっても、癒されたことはなかった。追い詰められた「もう、これでいい」と絵コンテを決定した後に、「こんなカットより、こっちの方がよくない?」などと言い出して、よくケンカになった。「あんた、どっちの味方やねん」と由布子が声荒げて聞くと、「どっちの味方って...。俺はおもしろいもんが出来たら、それでええねん」と言い放ち、その通りに平澤は誰の味方にもならずに、常に中立の立場で映画と接し続けた。だからこそ、いまから思えば、平澤の意見には真っ当なものが多かった。だからこそ何か迷うことがあれば、よく平澤に意見を聞いたものだ。由布子はそんなことを思い出しながら、平澤に聞いてみた。
「なあ、アラスカ事件、覚えてる?」
由布子が言うと、平澤が少し驚いて苦笑いをする。
「もう、やめてくれよ。アラスカ事件言うの」
「けど、アラスカ事件って聞こえたんやろ」
「はいはい。そうですよ。誰かがこの話をしたときに『あ、ラストカット事件やろ!』って言いよったんや。それが俺にはアラスカ事件に聞こえたの」
散々からかわれたことを思い出したのか、平澤が吐き捨てるように言う。その様子を見て、由布子が笑う。
「怒らんでもええやんか」
「怒ってません」
「怒ってると思うけどなあ」
そう言われて、今度は平澤が笑う。
「けど、誰がラストカットを勝手に変更したんやろ」
由布子が目の前のフィルムを触りながら、怪訝な面持ちで言う。
「だってな。夜間部の同級生はみんな知らんいうし、卒業制作の発表会の時にラストが変更されたあの映画を見たときもみんなびっくりしてたもんなあ」
「そやねん。おかしな事件や。もしかしたら、監督が誰かに恨まれてたんとちゃうか?」
「なんで、私が恨まれるねん」
「誰かとラストシーンについて、議論してたわけでもないしなあ」
「犯人はあんたか」
そう言われて、平澤の動きが一瞬止まる。
「びっくりした。なにを急に言うねん。唐突に言われたから、びっくりして一瞬動きが止まったわ」
「あんたはどっちが好き?」
「なにが?」
「そやから、私が最初に編集してたオリジナルと、上映会の時に見た変更されてたラストと」
「どうやろ。どっちもありかなあって。どっちも味があるし」
「なんか、怪しいなあ」
「怪しないって。そやけど、正直、あの映画のラスト、ちゃんと覚えてないねん」
「私はもう絶対自分が編集したやつが好きやねん。だって、変更されたラストやったら、女がめっちゃ冷たい女のままやねんもん」
言いながら由布子は、手に持っていたフィルムをクルクルとフィルムリールに巻き取り、平澤に笑いかける。
「なあ。あの卒業制作、もう一回見てみよか」
■
学内の試写室で由布子と平澤がスクリーンを見つめている。その顔がプロジェクターの光に照らされて、暗闇から浮かんだり、また暗闇に消えたりしている。
由布子が監督した作品がだだっ広い試写室で上映されている。ポツンと座る由布子と平澤。平澤は由布子の一つ後ろの席で、由布子の肩越しにスクリーンを見ている。ラストシーンが近づいてくると、由布子の肩が少し緊張したような気がして、平澤は思わず「もうすぐやなあ」と声をかけた。声をかけることで緊張が解ければと思ったのだが、由布子は小さな声で「うるさい」と返して、振り向きもせずにスクリーンに見入っている。
主人公の女が男と別れ話をして、部屋を飛び出すシーンだ。女が階段をどんどん降りていく。男が女を追いかける。カメラは男の見た目の一人称で、女を追いかけていく。付かず離れず、女の後ろ姿が近づいたり遠くなったりしながら、風景が少しずつ変化していく。
由布子が監督し編集したオリジナルは、ラストで追いかけてきた男を振り返り、愁いを含んだ笑顔を向けて手を振る。そして、再び背を向けるともう二度と振り返ることなく雨の中に消えていく。
しかし、五年前の卒業制作の発表会の日に由布子たちが目にしたのは、男を振り返る直前でカットされたラストだった。最初は上映設備の故障かと思った、とその場にいた夜間部の同級生たちは話し合ったものだ。だが、その途切れたカットの後、スタッフやキャストを伝えるエンドロールがきちんとつながっていたところを見ると、それが意図的に編集し直されたものであることは明白だった。
「もうすぐやなあ」
平澤が声をかけたその瞬間に「もうすぐや」と固唾をのんでいた由布子は、その絶妙なタイミングに思わず「うるさい」と平澤に返してしまったのだった。
スクリーンでは淡いピンクのニットを着た女の後ろ姿が画面いっぱいに映っている。長い黒髪がピンクのニットの上で前後左右に踊り、女の足取りの軽さを伝えている。由布子はどんなタイミングでカットが変わるのか、五年ぶりなのにも関わらず逐一覚えていた。女が階段から降りて、右に曲がり、小さな鉢植えの赤い花をチラッと見る。次のカットは女の右肩に黒髪が乗ったままになっていて、それを女が自分の手で払い、また歩き出す。
そんな細かなことまですべて覚えていることに、由布子は自分で驚いた。自分はどれほどこの小さな映画を懸命に撮っていたのだろうと、あの頃の自分を振り返ると胸が締め付けられた。そして、あの頃を自分自身がまだ微笑ましく思えないほどに、生々しく思い出していることに情けなくなってしまう。映画を撮りたいんだなあ私は、と由布子は思う。いま、自分の映画を見ながら、すぐ後ろの席いる平澤が驚くほどに大きな声で「映画が撮りたい」と叫びたい衝動に駆られる。そして、そんな衝動を持ち続けていることに由布子は呆然としてしまうのだった。ピンクのニットが画面を覆ってしまうたびに、女の黒髪が左右に揺れるたびに、由布子は自分の気持ちがはっきりとしてくることに気持ちを高ぶらせた。
女が男の主観であるカメラから少し距離を置くところまで早足で歩いていく。「ここや」とまた背後から平澤の呻くよう声が聞こえる。すると、女が立ち止まったのだった。立ち止まった女は見ている観客の方を振り返り、許しているような怒っているような、そんな微妙な笑顔を見せて、手を振るのだった。
「渡辺のオリジナル通りや」
平澤が独り言のようにつぶやく。
スクリーンに映った女は一度振り返ったあと、二度と振り返ることなくどんどんと歩いていく。その小さくなっていく後ろ姿を見ながら、由布子は「ああ、私の映画や」と思っていた。
「俺、こっちのラストのほうが好きや」
平澤が言う。
「ほんまにそう思う?」
由布子が平澤に聞く。
「うん、ほんまにこっちのほうが好き」
平澤が間の抜けたような声で答える。平澤の緊張感のない声が、由布子には胸に染みいるように入ってくる。そして、いま一緒に映画を見ている平澤が「こっちの方が好き」だと言ってくれただけで、なぜか、涙が溢れてきた。
「どうした?」
と聞く平澤に「そやから、学生時代からあんたは妙にタイミングがよくて気持ち悪いねん」と心で思いながら、由布子は無言でエンドタイトルを見ている。
あと数十秒でエンドタイトルが終わる。それまでに、この涙を止めることができるだろうか。後ろの席に平澤の気配を感じながら、由布子は泣き、そして、同時に微笑んでいた。(了)