私が消えて、写真が残る

1月最後の日曜日。午後から急に風が強くなって、雲行きに嵐の気配が混じる。こういう天気を片岡さんはうれしく思っているかもしれないな、なんて思いながら出かける。下北沢のB&Bという本屋さんで、片岡義男さんが登場するイベン「BETWEEN カメラ and 万年筆」が開催されたのだ。イベントのお知らせ文によると、写真集『私は写真機』(岩波書店)を完成させたばかりの片岡さんと、名作写真集『NY1980』の著者である大竹昭子さんのトークセッションで、作家にして「撮る人」でもある2人のあいだに立って行司を務めるのは、片岡さんの前作『この夢の出来ばえ』の編集・デザインを担当した川崎大助さんとある。


のっぴきならない用事で、どうしても開始時間に間に合わない。スカイツリーの見える街から電車を乗り継いで、会場にたどり着いた頃には1時間が過ぎてしまっていた。窓際の席から、揺れる電線が見える。夜になってからも風はおさまらない。

会場からの質問の時間になって、印象的な問いが投げかけられた。「なぜ、優れた写真家は言語能力においても優れているのか?」と。言葉そのままに引用できなくて申し訳ないが、片岡さんの答えは、「言葉がもっとも不自然なもので、その次に不自然なものが写真だからでしょう。不自然なものをつくり出す能力として両者が共通しているからでしょう。」というものだった。言葉によってつくられた世界(小説)、写真によってあらわされた世界、そのどちらをも片岡さんは「不自然なもの」と呼んでいて、その言い方にひっかかって、色々と思いを巡らせることになった。

『私は写真機』には、写真とともに4つの短い文章が掲載されているが、冒頭「なぜ写真機になるのか」を読むと、「不自然」の意味がさらに理解できる。片岡さんは、少年の日に触れながら、「曇った日は、すべて均一に揃った現実のなかに自分も取り込まれた」が、「晴れた日の僕は、意識の上でどこかその日の外にいて、外から晴れた日を見ていた。」と言う。そして、「曇った日をリアルだとすると、晴れた日は、それを外からとらえる自分の問題として、リアリティだった、と言ってみようか。リアルが現実そのものなら、リアリティとは、自分がとらえる現実、というものだ。」という核心にふれる言葉が続く。

世界に向き合って立っている自分、世界から切り離されている自分、そのあり方は、ある日意識される。世界から切り離されているあり方が「不自然」なのだ。あえて、それをやろうとする行為、それが「不自然」なのだ。「言葉」というものも、あえて世界と向き合って、名付けようとする行為だから「不自然」なのだろう。「自分がとらえる現実」と言っても、「自分勝手にとらえる」のではない。世界を鏡のようにうつしながら、移動していく人間の姿が、イメージとして浮かぶ。『私は写真機』という題名はぴったりだなと思う。

片岡さんは、暮らしを取りまいているものを撮る。手を加えたりしていないのに、現像された写真は非日常に見える。このことが持つ意味については、まだわからない。