朝の目覚めは悪くない。それでもなぜか毎日歯をみがくころから出かけるまでは気分が沈む。いってきますと玄関を出て梅を嗅いで雀を追って犬に無視され信号を無視して碁盤の目を5分歩くと地下鉄の小さな入り口。ついたころにはさわやかというほどではないが不快ではないから不思議だ。5分のあいだのいったいどこに、毎朝ひとつその気分を置いているっていうのだろう。エスカレーターもエレベーターもない、銀座線で一番乗降客が少ないというこの駅は始発から3駅目。今日もすわって、何を読もうか。スマフォの本棚から『風流夢譚』。honto BOOKで買ったもので、指をスリッと動かさないとページがめくれないのが難。その点、青空文庫のi読書は指を軽くタッチするだけでめくれるので気に入っている。
電子本に感じる一番の不便は(どこに書いてあったっけ?)と振り返るとき。しおりや付箋機能のあるものもあるけれどそういうことではなく、(はじまりのほうの、おとといの昼にナポリンタン食べたあとに読んだあのあたりにあったはず......)という程度の、紙の本ならぺらぺらとあっちこっちめくりながらああそうそうこれこれとみつけるという、そういう程度のことである。「あのあたり」とか「あのとき」というのは言葉としては曖昧だが言葉にならないもので体は満たされているもので、動かしたり叩いたりしているうちにあっちとこっちがつながって、それで思い出すこともある。紙の本と築き上げたこの関係は、いつか電子本とも別のかたちでむすべる日がくるのだろう。もうそれは私のカラダでは無理そうだけれど、せいぜいこの不便に文句を言っておきましょう。
四代目猿之助さんは本をめ〜っと開いて読まないそうである。開きの良くない本などはのぞきこむようにして読むそうである。昨夜テレビで言っていた。私はよくめ〜っと開く。本に対して愛が薄いつもりはない。それでもこの前、どうにも開きにくくてのぞき込んで読んだ本がある。『朝倉耶 麻子 追懐記』という。昭和29年、彫刻家・朝倉文夫の妻の三回忌のために、文夫の弟子などによる「朝陽会」が中心となって作られた本で、耶麻子さんの美しい写真が数枚貼ってある。2つあけた穴に7ミリ幅程度の濃紺のリボンを通して結んで綴じただけの簡素な作りだ。表紙は福田平八郎による白い山茶花。「遺言なし。全く死を知らないもののようでした(朝倉文夫)」、「毎日沢山の訪問客があっても滅多にひとにあわない。無駄な閑をつぶすより洗濯するほうがいいというて居られた。広い屋内外がいつも清潔であった(金津熊夫)」、「宵越しの金はもたない。他人に対し施すことが大好きな大変幸福な方(半田勇)」、「芸は好んだが芸人には興味無し。芸の批評は厳しかった(矢部謙次郎)」。没後、衣類夜具一切を三井病院に寄付したそうである。耶麻子さんによく似合う装幀と思った。十分にのぞきこんで読んだ。