吉原さんとの待ち合わせは、板橋区の喫茶店だった。彼を待ちながら気がついたのは、私には期待らしきものがまるでなかった、ということだ。手にしているのは石川さん用に書き直した原作で、何の手も加えていない。「これ、目を通しておきますんで」と言って、その場では文面を一顧だにしてくれなかった石川さんの顔が、いまだ頭を離れないのだ。また断られるに決まってる...。そんな思いがぐるぐる回っていた。
約束の時間に吉原さんが現われた。「どおも!」と元気よく片手を挙げて挨拶してくれたのだけれど、こちらに目を合わせようとはしていない。彼が席に着いて、当たり障りのない会話をする最中も、ときどき上目使いに目線をくれるだけだ。うん、これはこれで分かりやすいな。小学館の友人の話だと、こういったケースも珍しくはないらしい。コミック編集者というものは、こうやって場数を踏んでいくのだろう。
結論は早めに出してもらう方がいい。私はバッグからファイルを取り出して「こんなものを書いてみたんです。興味がおありになれば...」と彼に手渡した。彼はファイルを受け取ると、パラパラとめくり始めた。「いや、どうぞ。ご自宅ででも、ゆっくりと...」と言う私の声を聞いている風でもない。彼は最初のページに戻ると、そこから食い入るように読み始めた。じっくり読んでダメを出す気かな? 私はどこまでも疑心暗鬼だ。
文面に落とす彼の目線で、どのあたりを読んでいるのかが、よく分かる。さすがに自分で書いたものだけのことはあるなと、変なことに感心したりする。やがて彼が顔をあげ、とどめのセリフを言うその瞬間に、身構えている自分がいた。しかし吉原さんは、いっこうに顔をあげる気配がないのだ。それどころか、すさまじいほどの集中力で文字を追っている。あれ? なんだか様子が違ってきているぞ?
吉原さんは、いっきに4話分の原作を読み終えてしまった。そして切羽づまったように、大声で「これ、描かせて下さい!」と私に告げたではないか。目は真正面に私を見据えている。私はと言えば、ただ目を白黒させるばかりだった。「は、はい。どうか、お願いします」かろうじて口から出た言葉は、我ながら何ともマヌケに感じたのだけれど、それが私にできる、精いっぱいの反応だった。
その後、吉原さんはアパートの自室に私を招いた。狭いが部屋はよく整頓されていて、彼の几帳面さが伺えた。「いや、小学館の福田さんからお話があったとき、お断りさせてもらうつもりだったんですよ」彼は悪びれる風もなく、ぽんぽんと話を続ける。「でも、あの話はいい! すごくいいです! 何かベースがあったんですか?」いや、あれはウチの親父の体験で...と言うと、彼の顔はさらに明るく輝きを増した。
「実話なんですか! それは...、ますますすごい!」私にとって、思わぬ展開になりつつあるのだろうが、正直まだ実感が伴わない。彼の絵で、この話がどう綴られていくのか、まるで見当がつかないのだ。それだけ私の中で、石川さんの絵のイメージが色濃く存在していたことに、あらためて驚かされる思いだった。早急に気を取り直さなければ...。今ここに「描きたい」と言ってくれている作家さんがいるのだから!
あの...スピリッツ新人賞の応募作は拝見させてもらったのですけど、ほかに何か描かれたものってありますか? 吉原さんは私の問いに、ちょっと考えてから傍らの押入れから厚紙の箱を取り出した。蓋を開くと大判の封筒が現われる。「これ、以前に描いたもので、小学館での新連載が始まる前に、どこかで掲載してくれると言われたんです。原稿料までもらったんですけどね」吉原さんは複雑な笑みを浮かべていた。
拝見します。そう言って封筒を手に取り、中を見てみるとF1レースが描かれたモータースポーツものである。生原稿ではなくコピーだったが、精緻なペン使いが読み取れた。内容は日本人のメカニック(整備員)が、エースドライバーと罵り合いながらも栄光をつかみ取るといった1話完結もので、総ページ数は27である。小学館で福田さんに見せてもらった「ロレンスもの」も、このページ数だった。
27ページだと本誌ではなく、増刊号の扱いだな...などと思いながら、ストーリーの中で引っかかったと思う部分を頭の中で反芻する。だけど、これは小学館で「通った」原稿だ。プロの目が「通して」原稿料が支払われた作品なのに、何が引っかかったんだろう? 私はコピーを封筒に戻し、これ、預からせてもらっていいですか? と訊ねた。吉原さんは「掲載しないと言われたものですし、問題ないと思いますよ」と答えた。
吉原さんと別れ、帰りの電車の中でコピーを読み直す。やがて引っかかった部分が、おぼろげに見えてきた。エースドライバーがプラクティス(予選前の練習走行)でマシンを大破させてしまい、チームは頭を抱えるのだが、気を取り直したドライバーがTカー(予備のマシン)で何とかクオリファイ(予選)を通過し、先行車のトラブルにも助られながら勝利を勝ち奪る、といったストーリーだ。
引っかかった部分とは、罵り合う主人公とドライバーの接点が今ひとつ希薄であり、このままだと勝利の要因はドライバーひとりの頑張りと、幸運であったことだと読み取れてしまうことだった。これは作者の本意ではあるまい。私は社に戻ると、ホリデーオート誌の編集部に向かい、編集長を交えたスタッフにこのコピーを見てもらった。反応はすごくいい。何よりタッチが精緻だし、ストーリーがシリアスなのだ。
さすがに編集長はページの数に気がつき「フナさん、これウチに載せたいけど、いっぺんに掲載は無理だぜ」と言う。私は、ホリデーオートの月2回発行に合わせて前後編の連載にするよ、と伝えた。私は自分の席に戻ると、コピー機でもう一部のコピーをつくった。それをデスクに広げ、ダーマートで行けそうなコマとコマの間にマーキングする。そう、もう1エピソード加えて、32ページにできないか検討を始めたのだ。
なるべく既存のコマは弄りたくないので、ページごと挿入するに越したことはない。問題はストーリーにさらに深みを与えるエピソードを考えることだ。私は今ひとつ希薄と感じた主人公とドライバーの関係に注目した。プラクティスで大破するマシンの原因は? 私はここに主人公であるメカニックのアイディアと、それを否定するドライバーのやりとりを挿入してみた。うん、これなら行けそうだ!
このやりとりを4ページで構成して、さらに後編用のトビラを描き足してもらえば、この作品は32ページになる。つまり編集に都合のよい16ページずつの前後編ができあがるわけだ。私は吉原さんに連絡し、これを潜らせるのはもったいない。あと5ページ足してくれれば、ウチで買い取りますと告げた。もちろん、その5ページの内容も伝える。吉原さんはこの申し出に「うん、やってみましょう」と快諾してくれた。
快諾してくれたのは、発表の場が設けられただけでなく、小学館の編集が指摘しなかった事柄に私が注目したこと。そして私のアイディアが、この作品の完成度をさらに上げることになると判断できたことだと言う。そうなれば話は早かった。加える1エピソードは、クルマ専門誌に掲載するだけに、マニアがニヤリとするようなものを考えた。資料が揃うと、吉原さんは1週間ほどでこれを完成させた。
ホリデーオート誌に掲載されたこの作品の評判は上々だった。吉原さんには小学館が支払ったというページあたりの原稿料を聞き、同額を32ページ分、支払わせてもらった。「原稿料の2重取りになってしまう」と懸念した吉原さんが、そのことを福田さんに連絡すると「掲載すると約束したものを反故にしたのだから、非は小学館にある。遠慮なくもらっとけ」と言われたそうだ。車輪はついに回り出した。