殴ってやろうかと

 ああ、殴ってやろうかと拳を握る。握った拳をぐっと胸元に引き寄せて、腰を落とせば、いつでも殴ることが出来る態勢になる。
 目の前の高木はぼんやりとこちらを見つめるだけで、私が殴ろうとしていることには気付いていない。
 いくら腹に据えかねることを言い放った相手でも、こちらが拳を振り上げたときに構えてくれなければ、さすがに腰をひねって拳を打ち込むことなどできはしない。ぼんやりとこちらを見つめている高木の前で、振り上げられかけた私の拳は、中途半端に宙をさまよったあげく元来た道を戻ろうとしていた。
 すると、ぼんやり顔だった高木がすっと身体を差し込むように半身に構えると、ひらひらとした掌を見せながら右手を顔の位置まであげて、こちらへ打ち込んできた。
 見事なくらいに自然で軽やかなパンチで、まるでスローモーションのように私には見えた。何の力も入っていなかった掌が揺れるように高木の顔の位置まで上げられ、胸元に引き寄せられるころには、まるで卵でも内側に握っている程度に軽く握られ、徐々に力がこもって、私の眼前に来る頃にはそれ以上にないくらいに硬く小さく握りしめられ、血管が浮かび上がっていた。
 この拳で殴られたら死んでしまわないまでも、相当な怪我をするだろうな、と私はおそらく一秒もない時間の中で恐ろしいほどに冷静に拳を眺めていた。
 予想通り、拳は私の左の頬を目がけて加速して、あ、と思った瞬間に私の記憶は飛んでいた。
 
 病院のベッドの上で目覚めたとき、傍らの簡易な椅子に座っていたのは高木だった。
 私が目を覚ますと、高木は椅子から腰を上げて、「大丈夫か」と声をかけてきた。
「お前に殴られたんやなあ」
 私は高木に聞いた。
「そうや、俺が殴ったんや」
 なんとなく記憶が間違っていなかったことで、私は「そうか、良かった」とつぶやいてしまう。
 高木はそれを聞くと大笑いをする。
「殴られといて良かったはないやろ」
「いや、殴られたのは覚えてたんやけどな。もしかしたら、殴られた弾みに頭がおかしなってしもて、お前に殴られたいうのも俺の思い込みということもあるかもしれんやないか」
 私が真顔で言うので、余計におかしくなったのか、高木が改めて大きな声で笑い、廊下を歩いていた看護婦に注意される始末だ。
「そんなに笑うなよ。殴っといて」
「いや、悪かった」
「俺はなんで殴られなあかんかったんや」
 私がそう言うと、高木は照れくさそうに私の顔をのぞき込みながら言う。
「覚えてへんのか。俺は昔ボクシング習ってたんやで」
「あ! そうやった!」
 そうだった。高木は中学、高校時代、ボクシングを習っていたのだった。高校にはボクシング部もあったのだが、高木はボクシング部には籍を置かず、町のボクシングジムに通っていたのだった。
 あの頃、なんでボクシング部に入らないのかと聞くと、高木は「同級生相手に殴り合いなんかできるかい」と答えたことを思い出した。
「同級生と殴りあいたない言うてたくせに、なんで俺を殴るねん」
 だんだん意識がはっきりとしてきて、ずきずきとした痛みが顔の表面を覆い始めたのがしゃくに障ってそう聞いてみた。
「昔の話を覚えとんねんなあ」
 高木は笑う。
「ちゃうやん。同級生と殴り合っても金にならんと言いたかったんや」
「プロを目指しとったいうことか」
「そうや。そんで高校出てからすぐにプロになったんや」
「え、高木、お前プロになったんか」
 高校を卒業すると、高木は父親の仕事の都合で引っ越してしまい、接点が全くなくなってしまった。元々特別に仲が良かったわけでもないので、連絡を取り合うこともなく卒業後二十年目に開かれた今日の同窓会で卒業以来初めて会ったのだった。
「あの後、東京に行って、プロテスト受けて、すぐに通って、何回かプロとして試合をしたんや」
「強かったやろなあ」
 当時の高木の眼光の鋭さを思い出して、私は思わずつぶやいた。
 それを聞いて高木は苦笑する。
「強かったよ。デビュー戦から連戦連勝で五試合させてもろた。けど、そこで怪我してしもてなあ。試合に出れん日が続いたんや。そうなったらあかん。俺は我慢がきかんからなあ。あっと言う間に気持ちが崩れて、ジムにも通わんようになって、そのままや」
 高木はそう言ってしばらく黙り込んだ。私は改めて病室を見回して、そこが普通の入院部屋ではなく救急の患者が簡易に夜を過ごす病室であることを知る。酔っぱらいや予期せぬ怪我をした年寄りがさっきからバタバタと出入りをしている。ベッドが六つほど並べられているのだが、人が横たわっているのは私のベッドを含めて四つだけだ。しかも、四つのベッドに寝ている患者全員が寝間着ではなく私と同じように外を出歩ける服のままだ。ちなみに私は同窓会に出るために新しく買ったジーンズとジャケットという中途半端にカジュアルな格好で高木に殴られた。そのことを思い出して、ジャケットを探すと別途の傍らの椅子にきれいにたたまれて置かれていた。
 私は黙り込んだ高木に話しかけた。
「なあ、なんで俺を殴ったんや」
「お前が殴ろうとしたからや」
 答えながら高木が笑う。
「俺が殴ろうとしたってなんでわかったんや」
「そやから、言うてるやないか。プロでボクシングやってたんや。一瞬でも本気で殴ろうとしたのはわかる。そしたら、条件反射で殴ってしもたんや」
「あ、そうか。一応、反省はしてるんや」
 今度は私が笑う。
「当たり前や。お前と殴り合いして負けるわけがないのに、反射的に一発打ち込んでしもたんやからな。悪いと思てる」
「そやけど、俺がなんで殴ろうと思ったのかは知らんのやろ」
 高木がそう言われて、チラリと私の顔を見る。さっきまでの温和な表情のままなのだが、一瞬だけ冷ややかな視線が混ざったような気がした。
「それはわからん。二十年ぶりに高校の同窓会をした。そこでたまたま俺とお前が隣同士の席になって昔話に花を咲かせた。間に、昔二人で憧れた田村が入ってきてなんか話し始めた。田村がひとしきり話したあと、急にお前の機嫌が悪なってきて、気がついたらこうなってたんや」
 高木は呆れた顔で笑う。
 高木の言う通りだった。そして、驚くべきことに、私はその田村という同窓生の女子が何を話していったのかをまるっきり覚えていなかった。
 私がことの発端を必死で思いだそうとしているということがわかったのか、高木が言った。
「もう、ええんとちゃう?」
「もう、ええかな」
「うん。みんな飲んでたんやし。もう、会うこともないと思うし」
「また、同窓会やりましょう、言うてたやないか。幹事たちが」
「いや、俺はもうええわ。やっぱりこういうのは苦手や」
「そうか。もう会うこともないか」
「そや、そやからもうええやないか」
 私はそれもそうだと、うなずく。それを見て高木が笑う。
「なあ、高木」
「なんや」
「医者はなんて言うてた?」
「目覚ましたら帰ってええって言うてたわ。レントゲンもちゃん撮ってなんともなかったらしい」
「不幸中の幸いやな」
 私がニヤッと笑うと、高木は少し天井を見上げる。
「いやもう許してくれ。俺も元プロや、ちゃんと瞬時に手は抜いてるから。けど、ちゃんと狙いがあってるから見事に脳しんとうを起こしたわけや」
「それは、どうもおおきに」
 私たちは二人でひとしきり笑いあった。
「もう立てるか?」
 高木が聞く。
「ああ、大丈夫や」
「そしたら、そろそろ行こか」
 高木が私に肩を貸してくれる。そして、そのまま病室の入り口に向かって、歩き始めようとする。
「なあ、高木」
「どないした」
「もう、会わへんねんなあ、俺ら」
「うん、たぶんな。お前もそんな気がするやろ」
「うん。なんかそんな気がするわ」
「おもろいもんやな」
「おもろいなあ。ほな高木。おもろいついでに、俺に教えてくれへんか」
 高木が立ち止まって、不思議そうな顔をする。
「何を教えるねん」
「さっきのパンチや」
「パンチ」
「俺を一瞬にして廃人にした殺人パンチや。あれをお詫びに教えてくれ」
 高木は、また私の顔をのぞき込んだ」
「お前、本気で言うてるのか」
「ああ、本気や。俺には元でも現役でもボクサーの知り合いなんかお前しかおらん。もう二度と会わへんかもしれんのやったら、俺にさっきのパンチの打ち方だけ教えてくれや」
 私の話を聞いていた高木は聞き終わると大笑いをした。
「よっしゃ、わかった」
 そういうと、高木は私をベッドの脇に立たせて、パンチを繰り出す前の姿勢を手取り足取り教えだした。他のベッドで寝ていた酔っぱらいや年寄りが不思議そうな顔をして、私たちを見ている。そんなことを気にすることなく、高木は私にパンチの打ち方を教える。
「腰を引いて、戻す瞬間に拳に力を入れるんや。それまでは軽う握っとくんやで」
「こうか」
 私は言われた通りにパンチを出してみる。
「もうちょっとひねる!」
「こうか」
「拳の上に親指を出さな折れてまうぞ」
「こうか」
「もっと体重を乗せて」
「こうか」
「頭を揺らすな」
 雑然とした病室の片隅で、私はいつまでもパンチを打ち続け、高木はいつまでもパンチごとにアドバイスをし続けた。(了)