グヌンサリは「パンジ物語」に登場する王子の名前で、男性優形の舞踊である。前回紹介した「メナッ・コンチャル」と同じように、恋する男性の姿を描く、いわゆるガンドロンというジャンルの舞踊だ。グヌンサリという名前を聞くと、バリ島の有名なガムラン団体を想像する方もいるかもしれない。この物語はジャワ発祥だが、主要な舞台はジャワ島の東部とバリ寄りだし、東南アジア各地に広まった大人気ロマンで、タイでは「イナオ物語」の名で知られている。というわけで、当然バリでも知られた物語である。
この物語はジャワでは伝統的に仮面を使って上演される。ちなみに男性荒型の代表的な仮面舞踊「クロノ」も、「パンジ物語」に登場する王である。「グヌンサリ」も「クロノ」も、もともとはスラカルタ(通称ソロ市)とジョグジャジャカルタの2つの王都に挟まれたクラテン村(多くの宮廷音楽家を輩出している)で発祥した仮面舞踊劇ワヤン・トペンの登場人物の舞踊が独立したものだ。つまり民間起源の舞踊である。クラテン村の芸人たちは少人数で巡業し、やがて宮廷人たちの目に留まって宮廷でも踊るようになり、宮廷舞踊の影響を受けるようになった。だから、どちらの王都にもこの2種類の舞踊がある。ここではスラカルタ様式だけを取り上げるが、スラカルタ様式の舞踊「グヌンサリ」には2バージョンある。
ワヤン・トペンでは、グヌンサリ王子の役はグンディン形式の「ボンデット」で踊ると決まっている。いわば、彼のテーマ曲だ。PKJT版「グヌンサリ」が、この「ボンデット」で踊るバージョンである。PKJTというのは1970年代に行われていた中部ジャワ州芸術発展プロジェクトのことで、宮廷舞踊のスリンピやブドヨを含め、当時衰退の危機にあった伝統舞踊の多くがこのプロジェクトで復興、再振付された。そして、もう1つのバージョンが、ラドラン形式の新曲(確か、バンバン何とかという人の作曲)を使って、ガリマン氏が振付けたものである。
PKJT版(13分半)の「グヌンサリ」の音楽は、楽曲形式により3部(メロン、ミンガー、ケバル)から成る。メロン部は静かな音楽で、最初床に座って合掌(スンバハン)、次に立膝に座って合掌(スンバハン・ララス)し、立ち上がってララスを行うという宮廷舞踊の定型があって、優美な動きが続く。仮面は、立ち上がる前につける。宮廷舞踊では楽曲の1周期ごとの終わりに鳴る大ゴングの音に合わせて合掌するものだが、PKJT版ではスンバハン・ララスの合掌は第2クノン(2/4周期目)にくるので、音楽構造に敏感な踊り手には少し居心地が悪い。ただ、マタラマン(ジョグジャカルタ風)に演奏すると、第2クノンでスウアン(中ゴング)を鳴らすやり方があると聞いた。私の考えでは、宮廷男性舞踊はそもそもラドラン形式かクタワン・グンディン形式(両方ともグンディン形式の半分の長さ)の曲を想定して作られているので、グンディン形式では長すぎる、そのため曲の真ん中でスウアンを鳴らして区切りをつけるというやり方が考案されたのではないかと思う。(カセットではスウアンは使っていないように聞こえるが...。)
曲がミンガー部分に移行すると、太鼓がチブロンと呼ばれる華やかなリズムパターンを奏でるものに変わり、踊り手も生き生きとした動きを繰り広げる。その中に、前にさっと進んで止まり、片腕を肩の高さに上げてオケをする(胸を左右に揺らせる)動きがあるのだが(スカランIIIの後)、それはワヤン・トペンに特有の動きだと聞いた。それ以外の動きも、頭を振る動き(タタパン)などもアクセントがはっきりしていて、仮面舞踊に似つかわしい。というのも、仮面をつけたときは少し動きをカサール(粗野)にした方が仮面が生きているかのように見えるからである。そしてこの種の太鼓の演奏法(ガンビョンガン)の終わり方の定石通りに動きを組み立てているので、ミンガーで静かに曲が終わるのかと思いきや、テンポが上がってケバル(速い動きの場面)に続く。このケバルはマタラマンのやり方でソロには本来なかったらしいから、当時は新鮮な表現だったのかもしれない。それでもケバルの最後でテンポが落ち、踊り手は床にひざまずき、仮面を外して舞踊は終わる。合掌に始まり合掌に終わる宮廷舞踊の枠組みは保持され、グンディンという大曲の形式から得られる満足感も残る。
一方、ガリマン版の「グヌンサリ」(8分半)は、踊り手は立ったまま出てきて合掌しないのが特徴だ。観客に背を向けて仮面をつけたのち正面を向いて踊り始める。PKJT版で述べたような合掌〜ララスの部分は省略されているものの、ウィレンと呼ばれる抽象的な宮廷男性舞踊に出てくるような動きの型、フォーメーションが展開する。私はガリマン版の音楽も動きもそれぞれに好きだが、実は振付(音楽と動きの構成)はあまり好きではない。というのも、曲全体の雰囲気と比べて曲の前半(PKJT版で言えばメロン部に当たるような部分)での動きの格調が高すぎる気がするのだ。音楽は洒脱だ(チブロン太鼓に入ったところで女性歌手がルジャ・ルジャアンを歌う演出になっていて素敵だ)が重厚さはない。短い音楽なので入退場で合掌せず、しかも後で述べるように音楽の最後は尻切れトンボのように終わるという演出も軽い。それなのに、古典舞踊を極めた人しか習わないような難曲に出てくる動きやフォーメーションのコンセプトで曲の前半は進行していく。私は芸大留学中に、男性優形舞踊は第1セメスターから第8セメスターまで履修したが、第8セメスターまで至って、第1セメスターで習ったガリマン版「グヌンサリ」に出てきた振りに再会し(それまでの授業では全然出てこなかった)、驚いたものだ。ガリマン氏は、お稽古でちょっと舞踊を習って終わりというような初心の人たちにも古典の味わいを伝えたくて「グヌンサリ」を振付けたのかもしれない。が、アルス(洗練)の極みの難曲が大好きな私には、「構えていたら肩透かしをくらう」ような感覚がある。
ガリマン版のチブロン部分に関しては仮面舞踊にふさわしいアクセントのある動きが選ばれているし、最後はケバル演出になって終わる点でPKJT版とも似ている。が、最後、踊り手が舞台袖に移動し、音楽がフェードアウトしておしまいという点がPKJT版と違う。ガムラン音楽できちんと曲を終わろうとすると、終わる前の周期からきちんと合図を出して手順を踏まないといけないのだが、ガリマン版ではそういう合図が略されている。立って入退場、しかもこういう終わり方は結婚式やイベントで上演するときには具合がいい。カセット伴奏で踊る場合、踊り手が退場しかけたら、ブツッと音源が切られることはありがちだから(良くないけど)、初めからそういう音楽にしておいた、という感じなのだ。
というわけで、「グヌンサリ」の2バージョンの特徴をまとめると次のようになるだろうか。PKJT版は、民間起源の仮面舞踊たる野性味を残し、そういう舞踊が宮廷に取り入れられて形式を整えたという点が見えるような振付が施され、さらに目新しさも導入している。その点に、復興した宮廷伝統舞踊を舞台芸術としても通じる作品にしようとする意志が感じられる。それに対して、ガリマン版ではいかにも宮廷舞踊らしい構造を外し、初心者やイベント用舞踊として敷居が低い感じを出しているが、実は宮廷舞踊の奥義に通じたガリマンの知識が詰めこまれている。