青空の大人たち(1)

勤勉と敬虔と豪放が服を着れば、すなわち祖父である。少なくとも孫の目から見れば、一般における二宮金次郎とはこういう人のことを言うのだろうとも思える。徴兵はされたが出征しないまま終戦を迎えた祖父は、山村から叩き上げで工場町の洋品店主となった。経緯や評価はなにぶん私の生まれる前のことなのでわからないが、少なくとも私の幼年の記憶には、その商店には支店もあり、業務車も三台ほどあり、また公道には車体に商店の広告が大きく貼られたバスも走っており、さらには自宅にウォシュレットや電子レンジやビデオデッキがすでにあったから、それなりに成功したアッパーミドルであったはずだ。

しかしその後それら先進家電は長年買い換えられず、私の物心つく頃には店も一店舗のみの家族経営になり、大学生になると問屋の廃業に合わせてあえなく店じまい、戦後の自営業の盛衰とも重なるあたり色々とお察しいただけるとありがたい。

ともあれ孫から見れば祖父は出会ったときからすでに祖父であり、子どもからしてみても、やはり大物然とした人物ではあった。地元の人々、あるいは名士や政治家たちとのつながり人脈といったものは、幼児には量りかねても、年始にはきまって文字通り年賀状の山脈に家族が苦慮するといった思い出によって印象として刻まれている。

だが何と言っても祖父を私の祖父たらしめているところは、無類の甘い物好きであったことだろう。とにかく果実や菓子をよく食う。しかも自分が食べるだけでなく、人にも勧める。そしてふるっているのが、言われるがまま我々孫らも口にすると、二言目には「えらい」と誉めるところだ。そうなのだ、我が家では甘い物を食べると「えらい」のである。なるほど孫を「甘やかす」とはよく言ったものだ。

「えらい」と誉められるのなら、孫としても食べない法はない。子どもというものは何よりも甘い物が好きであるし、毎朝新鮮なオレンジやリンゴが出され、おやつには艶やかな饅頭がケーキが供され、あげく食べれば誉められるというのだから、損をするところはひとつもないように思える。もちろん毎日続けば多少辟易することもあるが、食べればその日一日家のなかで名前とともに「えらい」とずっと讃えられるので嫌な気はしない。

しかし大人になってよくよく思い返してみるとその行為は尋常でないところもあるような心持ちにもなり、深く考えてみると戦中の食糧難を経たあとの思いが祖父なりにあったのかもしれず、記憶としてはとにかくいい思いをさせてもらったという輝きだけが残っている。家計としては難しい時期があったはずなのだが、それでも甘味が家に絶えなかったことについて祖父と母には感謝してもしきれない。

あともうひとつ「えらい」とひたすらに持ち上げられる孫の行為といえば、何よりも思い出されるのは読書である。甘味同様、まずもって祖父が読書家であった。ただし自宅に本がたくさんあったというわけではなくして、たたき上げの勤勉家らしく図書館を使い倒すという部類だ。なので近くの丘の上にあった、蔵書のすこぶるよい図書館の利用証を孫全員に作らせ、自分の行くときにはたいてい孫ひとりを連れて行く。そして何の本を読めと言うこともなく、孫に好きなように本を借りさせ、そこで「えらい」と誉めたあと、帰宅時には車で途上の駄菓子屋へ寄り、アイスクリームを孫に買い与え、それを舐めさせては(やはり甘味なので)「えらい」と誉めちぎる。

これもまた孫としては断る理由がない。ついてゆけば誉められるのだ。こうして本と甘味が習慣づけられ、私という人間が出来上がるのだから祖父とは恐ろしいものである。とはいえ祖父がどこまで教育効果を考えていたかはどこか怪しいところもあり、孫に作らせた四枚の貸出券を用いて五枚分の図書を借りていたふしさえあって、したたかな商売人なかなか油断ならない。

ともあれ私は幼くして図書館を多用した。ところが祖父が何も言わないことをいいことに、私もまたその活用が少々妙であり、幼稚園児の私は絵本や児童書を借りるでもなく、もっぱら大型の紙芝居ばかりを大量に持ち帰っていたという。なぜかはさっぱり思い出せないが、かといってその紙芝居を誰かに読んだという記憶もない。物語を読むのなら、紙芝居であるから表の素敵なカラー絵でなく、裏面の白黒絵と文章に顔をくっつけなければならないはずだが、そんな回りくどいことをするくらいなら素直に絵本へ取っ組めばよい通り、どうにもそんなことをした覚えがない。感覚としてしっくりくるのは、大きな紙芝居の絵画部分と向き合うことで、その点は淡い思い出とも一致するのだが、そうすると幼少の私は絵を見ながら勝手に台詞や文章を捏造して楽しんでいたことになり、あるいは一種のお人形遊びや活弁に近かったのかもしれない。今の自分に引き寄せて翻案と定義づけるには、あまりにもうまく出来すぎた話だ。

のちに紙芝居も卒業することになるが、祖父との図書館行きは小学生になってもしばらく続いた。しかし当時は少年向けのチャプターブックにもあまりいいものがないと私は感じたらしく、手当たり次第に雑学の本を借りるに至る。結果私は、揚げ物の鍋から炎が上がった場合はマヨネーズを放り込むとよい、といった類の知識をため込む子どもとなり、一度は英雄としてマヨネーズを投擲する栄誉に浴したいものだと通学路で日々妄想する少年へと成長した次第である。なおマヨネーズは今に至るまで私のなかでは第一に武器であるが、ドレッシングとしては苦手きわまりない代物なので、一人暮らし中も揚げ物をせず平和な現在、冷蔵庫には常備されていない。

祖父は私が国立大へ入ったのを見届けてから亡くなったのだが、病床でもやはり孫のことを「えらい」と誉めていたと聞く。私自身はあまり見舞いにも行けず今となっては慚愧に耐えないが、どこか祖父に「えらい」と言わせ続けなければならないという張り合いもあって、あえて活動的であろうとしたところもある。だからこそ勉学やボランティアという形で読書を継続していたのかもしれないが、その関わり方はまたどこか変で、青空文庫というところで本を読むというよりむしろ本を翻刻したり翻訳したりしていたというのだから、孫も相変わらずである。祖父がそれでも「えらい」と口にしたのは言うまでもない。

思えば祖父には怒られた覚えがない。母や年の離れた姉や兄にはずいぶん厳しかったらしいが、どこかで方針を変えたのだろうか、私と接する頃にはすっかり丸くなっていた、と方々から耳にしている。少なくとも私が「えらい」と言われたのは恵まれたものを素直に受け取っただけであって、祖父のように立志があったわけではないから、どう考えても身に余る。

祖父の真意をどうこうしても詮無いが、ともあれこうして少年には「大人から物を何でも受け取る」という癖がついてしまう。あちこちに行ってはもらい、知らない人からも積極的にいただく、という案配だ。そういう意味で、私にとって知識や技術というものは、関西における飴ちゃんのようなものだとも言える。甘くて美味しいミームであればいくらでも欲しいのだ。