思わぬところで思わぬ人の名前を見ることがある。会員になっている情報処理学会の会誌をぱらぱらと見ていたら、青空文庫と大久保ゆうさんの名前をみつけた。ガッチャマンと比較しながら、青空文庫のクラウドソーシングについて解説したものだ。なぜ、ガッチャマンなのか?という問題はここ40年あまりガッチャマンを見てない年寄世代にはわからないのだが、面白く読ませてもらった。私だったら、ガッチャマンよりも、社会的な位置付けと参加する敷居の高低、社会構造論が絡めて面白いなどというかもしれないが、これもひとつのクラウドソーシングである。さまざまな人がそれぞれの気持ちで集まるのが青空文庫だとすると、こういうものなのだろう。
さて、閑話休題。
ガッチャマンだからというわけではないが、ここのところ、いくつかのアニメーションを半ばハマりながら、見ていた。最近のアニメは二分化されているらしい。ひとつが従来の子供向けのアニメ、もうひとつが大きな子供向けのアニメということらしい。これは、内容で分けるのかと思っていたら、媒体や放送時間帯で分かれるとみるの正しそうだ。
日中や夕方に地上波で流れるのが従来型の子供向けのアニメだとすると、深夜や衛星放送で流れるのが大きな子供、要はティーンエイジ以上をターゲットにしたアニメということらしい。困ったことに、内容は雑多で、本当にストーリーもので子供には難解なものから、年齢層が下でもわかりそうな内容まで様々ある。その何れにも共通しているのが、映像や音楽のクオリティが高いということだろうか。セルビデオから、音楽CDなどの幅広いメディアミックスで展開するために、高いクオリティが求められるということらしい。しかし、見ている側からすると、深夜なのにご苦労様なことだ。などといいつつ、このご当人も、この期に及んで、信州を舞台にしたいくつかのオリジナルアニメにハマり込んだ。なにせ、もう放送は終わっているので、映像の記録された円盤を大人買いして、なるほど、なるほどと、日々鑑賞会ということになった。いやあ、よくできてます。
さて、最近のオリジナルアニメと古い世代のスタジオジブリのアニメの大きな違いは、ジブリ世代が日本風のどこかの架空の風景を作り出すのに対して、こうした新しいアニメでは既存の風景をそのまま使うことかもしれない。フィクションであるにも関わらず、実際にある風景が使われることで、現実との間に不思議な接点が生まれる。だからという訳なのか、舞台として信州の美しい自然風土が選ばれていることが必然のようにも思えた。そんな現実の舞台を訪ね歩く旅行は「聖地巡礼」と呼ばれているらしい。とは言え、信州の多くの風景は私の中には現実の風景として存在するから、アニメに登場するそれらは、ある意味、不思議な存在でもある。
そうやって、風景を見ていると外に出たくてたまらなくなる。そろそろ、現実の風景の中に旅にでも出ようかと思うこの頃である。