「ほら、気持ちのいい天気でしょ」
あなたにそう言われて、空を見上げた。真っ青な空が見えて、真っ白な雲が見えた。
「こんなに気持ちのいい天気って、何日ぶりだろう」
あなたと僕は川沿いの堤防を二人並んで散歩していた。おたがいに休日出勤で、午前中の仕事を終えて、駅前で待ち合わせて、ここへやってきた。並んで歩いているので、おたがいの顔をちゃんと見たのは、駅前で会った時だけだ。それから、ずっとおしゃべりをしながら歩いているのに、前ばかり見ていて、僕はあなたの顔を正面から見ることはなかった。
「何日ぶりかな。ずっと雨ばかり降っていたからね」
僕はそう答えてあなたを見ようとしたのだけれど、時々視線の端に入ってくる少し長めの白いスカートが涼しげで、そちらに気を取られてしまっていた。そして、白いスカートは、春と夏の狭間の不安定な気持ちの良さを象徴しているように、僕には感じられた。
「こうして歩いていると恋人同士に見えるかしら」
あなたがそう言ったので、僕は笑いながら答えた。
「恋人には見えないと思う。少なくとも僕は、そんなことを考えただけで、平衡感覚がおかしくなるよ」
「どういう意味?」
あなたは立ち止まり、こちらを向いて聞いたけれど、僕はうまく答えられそうになかったので前を向いたまま、「他意はないよ」と答えた。
「他意はないよ。ただ、そういうことを考えると平衡感覚がなくなるというか、その場にしゃがみ込みたくなってしまうんだ」
僕がそういうと、あなたは楽しそうに、そして、少し不服そうに笑った。そして、ふと立ち止まって大きくのびをしながら、気持ちがいい、ともう一度つぶやいた。
僕はその声に促されるように、同じように伸びをして、腕を広げた。青い空からは白い雲が姿を消していて、さっきよりも強い陽ざしが僕の目に飛び込んできた。僕は眩しくて目を強く閉じた。暗くなったまぶたの裏側に陽ざしが見たことのない形を残した。僕は、あっ、と小さく声を出した。なにかはわからなかったけれど、僕の目に異変が起きたことはわかった。しばらく目を閉じたり開けたりしているうちに、僕の目から光が失われた。
半年の間、いろんな手を尽くしたけれど、失われた光は戻らなかった。痛くもなく、かゆくもなく、ただ目が見えなくなった。だから、最初から病気だとも思えなかったし、精神的なストレスからくるような何かとも思えなかった。
その冬、最初の雪が降った日に僕を診察した医者は「突然に失われた視力なので、突然に戻るのかもしれない」と少し強い口調で言ったのだが、それは僕を励ますという意味合いだけではなく、哀れみのようなものと、面倒くささのようなもの、そして、自分に対する不甲斐なさのようなものがない交ぜになっていたような気がする。
あまりにも唐突に見ることができなくなったせいだろうか。僕はこれからずっと目が見えないのだ、ということよりも、目が見えなくなる直前に見たものが青い空だったことに意味があるような気がしていた。または、人生における心残りのようなもの。
とりあえず、僕の目から光が失われるという出来事は、僕のスタートしたばかりの会社員としての生活を強制終了させ、あなたと僕との始まったばかりの付き合いも強制的に終了させた。
目が見えなくなって最初の二週間ほどは、一緒に病院を探してくれたり、診察に付き添ってくれたりしていたのだが、やがてあなたは僕の横に立たなくなった。
「私が空を見てと言わなければ、あなたの目が見えなくなるなんてことはなかったかもしれない。そんなふうに思えて仕方がないの」
あなたから届いたハガキにはそう書いてあった。
「いまあなたに会うと、私は私自身を許せなくなるかも知れない。だから会えないの」
もちろん、僕にはハガキの文字は読めなかったのだが、読んでくれた友人は声を震わせて怒っていた。まず、こんな身勝手な話はないと憤り、次に、こんな大事な話を目の見えない僕宛てにハガキで書き寄こした、という非常識にあきれ、僕の前でずっとあなたの悪口を言い続けた。
その悪口を聞きながら、僕は見えなくなった目でいま目の前にいる(目が見えていないのに目の前にいるという言い方はなんだか妙なのだけれど)同僚たちのかつての顔かたちを想像しながら、いくらうまく想像できたとしても、それは彼らと僕との過去の時間でしかないのだなということを考え続けていた。
そして、これも不思議なのだけれど、あまり目が見えなくなったということに対する絶望のようなものを感じることはなかった。それよりも、奇跡的に目が見えるようになったら、なにを見ようか、などと考えることが多くなった。僕が見たいものは何だろうと考えると、やはりそれはあなたの顔だった。好きだとか嫌いだとか、そういうことは関係なく、次に僕が光を失う直前に見るものは真っ青な空ではなく、あなたの顔であってほしい、と思うのだった。
もちろん、もし、あなたの顔を見た後に、僕の目が光を失ったとしても、きっと僕とあなたは離れてしまうのだろう。いまと同じように、あなたからの強制的な行動で一緒にいることはないのだろう。それでも、と僕は思うのだ。真っ青な空ではなく、あなたの顔を最後に見たい。もう一度、目が見えるようになる前から、そう思うのだ。