スタジオイワトを閉鎖してひどく淋しかった。此処ではない何処かにいかなくては、そう思った。
あったようなないような動機は省きますが、ひょんなことから瀬戸内海に浮かぶ小豆島に今年2月19日に移住しました。生まれてこのかた東京しか知らない人間にとって、地方のそれもいきなり離島暮らしはどんなことになるのでしょう。ここに記録していきます。
小豆島はほぼ世田谷区と同じ面積で人口3万(最も多かった時代の半分)の、ご多分にもれず過疎化が心配される島です。島のまんなかに一番高いところで千メートルのなだらかな山々が縦断、くねった半島がこれまた数カ所あり、山の上から見れば四方海に向かって集落が点在している。集落の中には空き家や廃屋もそこかしこに散見、島の中に大きな商店街なし、コンビニ数店、スーパー数店。喫茶、居酒屋は島全体で数えても両手で間に合いそう。笑ってしまう。
夜な夜な飲みにいくのが日課であった、夜中にコンビニまで散歩と称してビール買いに行くのが好きだったわたしがここで暮らしていけるのか、家を探しに島中を歩き回った時はその点だけが不安だった。が、住んでみれば心配ご無用、美しい夕焼けから夜に向かうと、夜はまるで真っ暗、一寸先が闇だった。どこにも出ていけないのだった。おまけに島は風が吹きまわる、山の裾野に借りた家は築100年だから硝子戸は風が吹くたびにがたがた騒ぎまくる。直ぐ前の小さい山にはいのしし、しか、たぬきが生息しているらしい、夜もしいのししに出会っても目を合わさなようにと忠告をうけている。さらに夕方5時には「よい子のみなさん、もうお家に帰るじかんです。外にいる子ははやく帰りましょう」町内放送のアナウンスがご丁寧にも村落にひびきわたるのだ。よい子じゃないけど家に居るしかない。
島の朝は早い。7時に例の町内アナウンス「おはようございます。今日の天気は、、、、」が鳴り響く。先日泊まりにきた孫娘が「みっちゃんはどうしてパジャマじゃなくて洋服で寝ているの」と聞かれたが、パジャマと同等のものしか持ってないこともあるけど、これにはワケがあるのです。引越して以来毎日のように近所の人から役所の人から配達のひとから友達、いろんな人がいきなり早朝からやってくる。電話なし。これにはちょっと驚いたがイヤではない。これもアリかぁぁ。島に来てから友達になった若者たちからは畑の野菜が届く、手作りのパンやクッキーが、遠方の半島からオリーブオイルが、タラの芽が届く。こんなにたくさん友達ができるなんてこれは想像だにしなかった。有り難い。みんな小型車でスイスイと島中を朝から動くのだ。そして朝から夕方まで実によく働く。
五郎は引越して来た日にお手伝いに来てくれた人。初対面であったが寡黙で重たい荷物をあちこちに運んでくれたりした。その佇まいを見て、ちょうど硝子戸と廊下床下からのすきま風がきになっていたのと本棚を誰かにつくってもらいたかったので、彼にたのんでみることにした。それからしばらくしてパンチカーペットの分量をきめるために廊下の寸法を計りにきてくれたのが40日ほど前。それから一切現れない。島の人はこんなテンポなのかなと催促もせずじっと待つことにしたのだ。そろそろ寒さも遠ざかりすきま風もさほど気にならなくなってきた。なので土間の本棚はまだできていない、ひっこしてきたままだ。
五郎は40代半ばだが、名前は本名ではない。ドラマ「北の國から」の田中邦衛演ずる主役の五郎に憧れて、自分から五郎と名乗っているらしい。本名は知らない。連絡先もきいていない。しかし田中邦衛というよりどちらかといえば高倉健に似ているのだがなぁ。少しメッシュの入った髪を後ろでたばねている。実にハンサムなのだ。ときどき遊びにくる彼の知り合いに 五郎ちゃん全然連絡ないのよ、暑くなってからすきま埋めにきてくれるつもりかなぁと水をむけると、皆たいして驚いた様子も見せず、にっこりする。
五郎の生業はきこりや土木作業らしい。山の樹を親方について伐採、お遍路の山道を造ったり、国道まで茂ったの樹木の伐採、とみなそこらここらで五郎を見かけているようなのだ。また五郎はひとりで作業場をもち木工(匙作り)の名手でもある。2度目に来たときに見せてもらったママスプーン(赤ん坊が離乳食に使う最初のスプーン)の何とも言えない優しい造りに思わず買ってしまった。その出来具合は五郎そのものである。
いつ来るかわからないが待つ事にする。
★数ヶ月ぶりに東京です。→ http://www.studio-iwato.com/studio/index.html よろしければ遊びにきてください。