青空の大人たち(2)

この私にしてこの中学ありき、とでも言えばよいだろうか。あるいはどっちもどっち、という教訓に落ち着くべきなのかもしれず、またこの話をするたびにわが中学はその実在を疑われるという憂き目にあっているのだから、もはや作り話の類でも結構なのだが、ここは穏当に記述を進めることにする。

さて中学生なるものは奇態な生き物であるということは論を俟たないが、中等の私がどうであったかと振り返るに、無気力・弛緩を一般の学園則に照らして向上心がないと捉えれば、ひとまず自分を不良だったと考えることもできる。

というのも、入学してすぐさま教師からの通達を無視しているからだ。通う学園に暗黙のルールがあり、どうやら生徒はなべて仮入部を経て部活動に所属すべしという思惑が職員室あたりにあったようだが、こちらは知ったことでない。いや正直、理屈がとんと思い出せないが、そもそも生徒手帳にも書かれていない規則など守ってやる義理もない、と言い訳をここで後付けしておこう。

興味もなく、やる気もない、ある種の終わりのあとの無意味を生きていた少年であった次第だが、数ヶ月のあいだ見逃されても、むろんある時点で教師に気づかれ呼び出され問いただされるに至る。説教を食らったような記憶がないので、どうも当時、意にも介さず聞き流していたようだが、こちらが部活に入る気など毛頭ないと悟った相手が、あきらめたように特例で生徒会へ入るのはどうかという代案を出してきた。

確かそのとき一年の生徒会メンバーがほとんどいなかったらしく、しかもとりあえず生徒会室にいるだけでよいと聞き及んだので、そんな楽な立場ならばやってやらんでもないと偉そうに引き受けたがきっかけ、三年になるとそのまま生徒会長になっていたのだが、その仕事ぶりは往時の当人の心境通りやはりきわめて意味を欠落させていた。

たとえば壮行会という行事がある。つまるところ地方大会などを前にして、結局私の入らなかった部活動の面々を講堂に整列させ、順々に決意を述べさせていくという様式の全校集会なのだが、ここで生徒会長にまずもって全部員を鼓舞する言葉を述べるという役目があった。しかしそんなこと私にとってまことにどうでもよい事案であるから、ここで雑で空辣な比喩をひねるのが毎度であった。

「みなさん野に咲く花のように頑張ってください。」――もちろんさしたる意味もない。ところが生徒会長がこんなことを言い出すと、各部活の部長をしている悪友たちも面白がってか、同じように次々と中身のない宣誓を始める。「はい、ぼくたちは道ばたの石ころのように粘ります!」「わたしは腰のあるうどんのように全力を尽くします!」

ナンセンスを競う全校大喜利といった趣で、今から考えても大したものでもないのだが、行事の厳粛さとお年頃の少年たちのやることであるから、これがそれなりの笑いになる。私も気を良くして、何か行事があるたび人前でナンセンスを率先して口にするようになって、中央から差し向けられた校長からひどく睨まれたのだが、教師一同はいつも通りといった風情で悠然としたものだった。何かのシットコムか新喜劇のようなものだと思われていたに相違ない。

しかしよく考えればそもそも彼ら教師の授業からしてあまりにも関西であった。とっぴな発言をして怒られた生徒というものが皆無であり、授業での発言は何でも許されるといった空気が蔓延していた。そこでは指された生徒が、普通であれば間違いや勘違いとして叱られるような、どんなに妙でとんちきな回答をしても、教師の容赦ないツッコミなる返しで一瞬のうちにその内容がボケとして回収されるため、我々は臆することなく自分たちの思うことが表現できたのである。

社会の時間では歴史上の人物や出来事を勝手にすり替えてもよかった上に、国語の授業中には取り上げられた作品へどんな解釈を提示しても笑えればよしとされた。偉人の肖像に髭を書くさながらに、自然描写の傑作を原色ぎらぎらのポスターアートのように解しようとも、教科書の人道主義や正義に真っ向疑問を差し挟もうとも、教師の差配でひと笑いが起こって終わる。もちろんそんなことをしていれば、少年たちはいかに妙なことを言おうかと競うわけだが、私が心地よかったのが何よりも苦手な英語の時限だった。

いつも満点の半分より少し上あたりしか取れない自分であったから、面白くもないテストやプリントを少しでも楽しもうと、私は和訳の際、好きにキャラクタを設定して、様々な口調や文体で文章を書き込むのが常であった。そっけない例文の裏に、気取ったり怒ったり笑ったりふさいだりする人間を想像しては、そやつらにお出まし願うのである。別にこれは私に限ったことでなく他の者もやっていたと聞く。

しかし二年のあるときか、ある単元をまるまる訳してこい、という課題が出された。本文はサスペンス調の例文で、むろんどのように訳出してもよい、というお触れつきだったのだが、ここで私は拡大解釈をし、この言葉を「自由に脚色してよい」と受け取り、数夜がかりで翻案し、短編ミステリへと仕立て上げる。提出されたシナリオは教師にいたく気に入られ、ポスターにして掲示するという教諭の意向を受けて、私はそれを時間をかけてさらに改稿するのだが、完成したポスターを預けてすぐにその若い先生は留学してしまい、彼女はその原稿を持ったまま旅立ってしまう。

こうして私の処女作品は発表されないまま他人の手元で眠っているのだが、原稿を人に預けることについては昔から縁があるようで、他にも三年時の文化祭の出し物用に書かれた喜劇の原稿もまた、当時の担任が今でも保管しているという。夏休みのあいだに書かれた宛書きの拙いシナリオだが、いくつかの案との互選の末、没になったあとも、彼女はいたく気に入り、いつか私の知らないところで上演しようと目論んでいるらしい。とはいえ、そのときの友人たちが演じることを想定して作ったものであるから、実際に舞台に乗せたところでどのようなものになるかは思いも寄らない。確か大統領の上にエアコンが落ちてくるような話だ。

もうひとつ、確か選択授業だったか、数人だけで集まって創作演習もやった覚えがあるのだが、そのときにこしらえたミステリ小説めいたものは、二冊ルリユールしたはずなのに手元に一冊しかないから、もう一冊は誰かの手元にあると思われ、これに至っては所在すらわからない。ともかく爾来、今に至るまで、何かを書いては後先考えず人に預けるという行為を繰り返しているが、広く誰かに読まれたいという気持ちが一向にわかないあたり、原稿とは誰かに託すものと思っているふしがあり、前近代宮廷の創作よろしく文芸とは一種の私信であるのかもしれない。たまたま受け取りたがる大人たちがあのときのあの中学には多かったとも言えるのだが、渡す方はおよそ好き勝手であり、そのせいか割合に生きやすい空間であった。

しかし自由とはその謂い無法でもあるから、けして良いことずくめでなく、ある朝生徒たちが登校すると教壇の上に自転車がにわかに鎮座ましましていたり、私を含めたクラスの男子全員で授業をボイコットしたりなど、事件をにおわせる出来事も少なくなく、自分が卒業して数年後には荒れる学校としてTVのドキュメンタリーに出るまでになったというから、必ずしも推奨できたものでも自慢できたものでもないのだろう。

今や笑いの学園はただ思春期の淡いのなかだけに存在する。