青い山並みに思いをはせながら「カフェ・ピンネシリ」でお茶を飲み、幼いころ北国ですごした「記憶のゆき」を踏みかためる計画で、月刊ウェブマガジン「水牛のように」に詩を書きはじめた。やがて記憶のなかの「ピンネシリ」がゆるやかに解けていった。それで一区切り、と思ったのだ。
ところがユキは、あいかわらず、踏んでも踏んでも粉のような降りかかってくる。花のない春の災厄で、見えない光を発する非情な粉塵まで混じって。風が吹くと舞いあがり、一寸先は闇のよう。
踏みかためるために履いた赤いゴム長靴は、理不尽な、詭弁の吹きだまりに膝まで埋まり、記憶のゆきは狂うように舞って、荒れる。
軽い靴にはき替えた。あれは百里靴だったかもしれない。翻訳中のJ・M・クッツェーが暮らした南半球の岬の街、ケープタウンへ飛んでしまったのだから。テーブルマウンテンの真っ平らな山の頂きからは雲が流れ落ちていた。青空を背に、まるで純白のレースのように。分厚い窓ガラスごしにその雲を見ながら飲んだルイボスティー。
乾いた空気のなかに立ちのぼる湯気が、一瞬、鼻孔から頭骸骨のうちがわに染みて、やわらかな記憶の肉を洗い、時間軸の骨だけ残す、奇妙な薫り。旅で出会う「異邦の薫り」とはまさにこれか。そんなプロセスから生まれた詩も、詩集『記憶のゆきを踏んで』におさめた。
幸運の鳥が舞い降りたらしい。編集は八巻美恵さん、装丁は平野甲賀さん、発売はもうすぐ出る訳書、クッツェーの三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』の版元インスクリプトだ。詩集の表紙には「甲賀グロテスク」の文字がそろい踏みし、帯には自在に百里靴をはき替える希代の詩人、管啓次郎さんのことばが並ぶ。翻訳者からいま一度、詩人に身をひるがえして、22年ぶりの詩集です!