奥多摩の小さな村に取材に行った。取材が終わり、せっかくだからと一人で歩き回っていると急に視界が開けた。小学校だった。広い運動場があり、奥の方に三階建てくらいの木造の校舎があった。校庭の真ん中には大きな木が一本生えていて、夢の中に出てきそうな小学校だった。
フェンスも校門もなく、運動場を取り囲むように少し背の低い木が防風林のように植えられている。僕はその木の間をすり抜けて、校庭に入り込む。校庭の真ん中の木を取り囲むように陸上競技用のトラックが白線で描かれていて、三人の子どもたちが駆けっこをしている。
三人の子どもたちは、スタートラインに並んで立と、いちばん年上らしき女の子が大きな声で「よーい」と叫ぶ。そして、しばらく間を開けてから「どん」と大声を出すと、みんなが一斉に走り出す。年上の女の子は年下の子に手加減をしているのか、様子を見ながらゆっくりと走る。小さな男の子は必死で走っている様子だが、同い年くらいの女の子に抜かれてしまう。
結果が出ると、また三人はスタートラインに並ぶ。「よーい」「どん」という声が響く。小さな男の子が必死で走り、最後に小さな女の子に抜かれる。その繰り返しだ。
三人は何度も何度も同じ結果の駆けっこを繰り返している。僕はその様子を飽きもせずに眺めている。校庭の隅からその様子を眺めているのに、ときどき三人の子どもたちの表情が手に取るようにはっきりと見えたり、どれだけ遠くから眺めているのだろうというくらいに豆粒のように見えたりする。
不思議だな、と思っていると、
「こんにちは」
と女の子の声がした。いちばん年上の女の子だ。
「こんにちは」と僕は答える。
「元気に走っていたね」
「はい」と女の子は返事をして、他の二人も遅れて「はい」と返事をする。
「この子は弟のタケシです。小学校一年生です」
そう紹介されて、男の子はただ照れたように笑っている。
「この子は従姉妹でルミちゃんです」
タケシは、自分が紹介されたときには照れて笑っているだけだったのに、ルミちゃんが紹介されると「はいって言わなきゃいけないんだぞ」とルミちゃんの背中を僕の方へ押しやろうとする。ルミちゃんは嫌がって、タケシを振り返って頭を叩こうとする。タケシは駆けっこでは負けていたくせに素早く逃げて、脇にあった雲梯に手をかけて器用に移動しはじめた。ルミちゃんは雲梯の下からタケシを捕まえようとする。タケシは捕まらないように雲梯に捕まりながら身体を揺すって、右へ左へ移動する。そして、ふいに力を入れたかと思うと、雲梯の上に立ち上がって、手放しでバランスを取りながら歩いたりしている。
「あぶないよ」
年上の女の子が注意するが聞いていない。
「君はタケシくんのお姉ちゃんなの」
そう聞くと、女の子はさっきのタケシくんと同じ照れた表情をして、はい、と小さく返事をする。
「タカハタミサトです」
礼儀正しくいかにも長女らしくミサトは自己紹介する。僕は思ってもいなかった場所で、思ってもいなかった友だちができたような、そんな気持ちになり、立ち上がった。
「ようし、久しぶりに雲梯やってみようかな」
僕はそう言うと、雲梯に手をかける。手をかけたと同時に足を跳ね上げてぶら下がる。
そのつもりだった。
しかし、実際には身体は一瞬も雲梯にぶら下がらずに校庭に叩きつけられた。
タケシとルミちゃんが大声で僕を指さして笑う。ミサトが大丈夫ですか、と近寄ってくる。大丈夫大丈夫、と僕は立ち上がる。思いの外腰を打っていたが、平気なふりをして立ち上がる。
もう一度、僕は雲梯の鉄の棒を握ってみる。はしごを横に渡したようになっている棒は、さっきは気付かなかったが、意外にひんやりとしている。その棒をしっかりと握り、今度こそ、と僕は身体を浮かそうと腕に力を入れて、身体を引き上げる。力が入らない。身体が落ちる。腰を打つ。また同じ結果になった。
そんな僕の真横でタケシが雲梯をまるでチンパンジーかオランウータンのように自由自在に動き回る。見ると、タケシの腕にはしなやかな筋肉がうごめいている。それに引き替え、三十代も半ばになった僕の腕は白く、筋肉の盛り上がりさえない。
ようし、このままでは終われないぞ、と僕はもう一度雲梯の横棒を握る。
「身体を揺すりながら、次の棒をつかむんだよ」
そう言いながら、タケシは僕の前を行く。僕はわかってるよ、と答えて僕はもう一度、雲梯にぶら下がる。今度は捉えずはぶら下がれた。しかし、まったく身体を揺するどころじゃない。その時、タケシが僕の真横に来て、声をかける。
「ねえ、おじさん、なんて名前?」
僕は一瞬、自分の名前を思い出そうとして、雲梯から落ちる。
大きな声でタケシが笑いながら、僕を指さして笑っている。
「名前もわからないの」
タケシは聞く。僕はとっさに弟の名前を思い出してしまい、自分の名前が思い出せない。なぜだろう。なぜ、名前が思い出せないのだろう。
でも、と思い出した。あの頃、雲梯をタケシのように自由自在に遊んでいた頃には、名前なんて聞かないままで日が暮れるまで遊んでいたことを。
「もう一回挑戦しますか」
ミサトが生真面目に聞いてくる。
「もう、いいや」
僕がそう言うと、タケシとルミちゃんがまた僕を指さしながら大声で笑い始める。(了)