月の満ち欠けに揺れる舟

 灯もつけずに映写室に入っていく。
 どうせ、映写機を回したら真っ暗にしてしまうのだ。それなら、最初から暗いままでいい。狭い映写室なら、手探りで充分。少し手を伸ばして、映写機のすぐ横に置いてあったフィルム缶を開けて、四百フィートのフィルムを取り出してセットする。映写ボタンを押すとカタカタと音を立ててリールが回り始める。
 私は映写室を出ると客席に降りていく。五十人も入ればいっぱいになる小さな試写室だ。映写室からのランプの光だけで、客席が照らし出されてしまう。
 前から三列目の真ん中の席に座り、映画が始まるのを待っている。客席には私一人だ。素抜けの明るい光がふっと途切れて真っ暗になるとカウントリーダーが始まり、本編が始まる。

 ビルの屋上が映し出される。
 ビルの屋上から見える半月。男がビルの屋上の配電施設の階段に腰をかけて、月を見上げている。ふと、月を見ていた視線をカメラに向けて男は話し出す。
「『月を見上げていると、抱かれたくなるの』と彼女は言った。『付き合っている相手に抱かれたいと言われて嫌な気持ちになる男はいないと思うよ』と僕は言った。『あなたに、というわけじゃないの』と彼女は言った。『僕じゃなくてもいいっていうこと?』と僕は聞いた。『ちょっとニュアンスが違うわ』と彼女が答えた」
 次の瞬間、男と女が月を見上げている場面が映し出される。さっきまでの画面とつながりはない。月を見上げている男女。女は事務服を着ている。男は作業員のようなラフな服装。
「ちょっとニュアンスが違うわ」と女。
男は黙っている。
「あなたじゃなくてもいいってわけじゃないの」
女は、男の指に自分の指を絡める。
「ふっと、あなたの顔を忘れてしまう」
「抱き合っているときにも?」と男が聞く。
「目の前にあるあなたの顔がわからなくなって、若い頃のあなたを思い出したりするの」
男はじっと女を見つめる。
「ねえ、どう思う?」と女が笑う。
男はしばらく考えている。
「でも、君は僕の若い頃なんてしらないよね」
「そう知らないのよ」
「でも、思い出せる」
「そう思い出せる。思い出して、若い頃のあなたに抱かれているの」
「......」
「だから怖いのよ」
 ふと真顔になる男。女は笑っている。そして、言う。
「ねえ、どう思う?」と聞かれ、男は曖昧に笑う。

 そこで、フィルムは黒味になり、直後にビルの屋上の風景へとオーバーラップする。あと数日で満月になる月だ。カメラは冒頭のカットで男が座っていた配電施設の階段部分に座っている女を映し出す。月を見上げている女。女はふいに真っ直ぐに視線をカメラに向ける。
「『ねえ、どう思う?』と私は聞いた。彼は何も答えてくれなかった。答えなんていらないと思っていたのに、答えてくれなかったことで、私は傷ついた。そして、彼とは別れようと決めた」

 私はこの映画を見たことがなかった。主演している男優も女優も見たことがない。それほど演技がうまいわけでもなく、見ることができないほど下手なわけでもない。二十代半ばの若い男女がごく自然に別れ行く恋人同士を演じている。
 私は映写室を振り向いて、あとどのくらいフィルムが残っているのかを見ようとする。まっくらな場面で、光が届かず、映写室の中が見えない。目をこらした瞬間、急に光が発せられて、まぶしさに私は目を閉じる。スクリーンのほうから声がする。向き直ると新しい場面が始まっている。

スクリーン上にはさっきの男と女が、まっすぐにこちらを見ながらたたずんでいる。男も女もカメラ目線。つまり、私を見つめながら話し始める。

「僕たちは別れることになった」
「私が別れを決めた」
「僕はどうしてわかれなければならないのかが、理解できていなかった」
「私も理解などしていなかった」
「だけど、続かないことはわかっていた」
「だから、私は別れようと切り出した」

 ここでスクリーンは暗転し、またすぐに屋上が映し出される。手持ちカメラによる場面が始まる。これまでのシーンとは違い、カメラが自由に動き回りながら、二人の会話を捉えていく。

「別れるって決めたんだよね」と男が問いかける。
「そう、きめたの」と女が答える。
「別れたくなった、とか、別れなきゃいけないとか」
「そういうのじゃないわ」
「でも、別れるって決めたんだね」
「そう、別れるって決めた」

 なんだか、話の確信が掴めなくなったのか、二人は笑っている。そして、男は笑うのをやめて、女に話しかける。

「寂しいよね」
「すごく寂しい」
「なんだろう、週末にここでだけ会っていた二人なのに」
「お互いにパートナーは別にいるのにね」

 二人はそのことについて考えている。

「それでも寂しいね」
 男は小さくため息をつく。
「うん、寂しいわ。具体的に何が寂しいんだろう」
「別れたら、身体にさわれないんだろう?」
「別れたのに、さわってたらおかしいでしょ」
「でも、さわりたいよ」
「私もさわられたいし、さわりたい」

 二人は互いの身体にふれようとして、思いとどまる。

「がまんできるかな」
 と男は笑う。
「できるわよ。だって、わかれるんだから」
 女も笑う。
「さわりたくなくなってから、別れるっていうのはどうだろう」
 男は真顔で言う。

 女は男の言葉を聞いて笑う。そして、しばらく考えている。

「二人同時に、そんな瞬間がくるわけないと思う」
 と、女は少し思い詰めたように言う。今度は、男が考えている。

「そうだね」
「どちからか先に、相手にふれるのが嫌になる。その瞬間に立ち会うのがこわいのよ」
「そんなことを考えるのは、とても、人間らしい気もするけど」
「生き物としては、とても、不自然な気もするわね」
「なるようになれば、いいのに」
「なりゆきに任せてもいいのかも知れないけれど...。私はそこまで強くない」

 スクリーンには月が映し出される。そして、かつてこの映画と同じような会話を経験したという気持ちになっている。それは、とても似ているのだけれど、でも、根本的なところで、まったく違う会話だったと思う。そんなことを思いながら、映画を見続ける。

 二人が映っていた場面が終わり、映画の冒頭と同じように、男が一人だけこちらを真っ直ぐに見つめながら座っている。

「『私はそこまで強くない』と彼女は言った。『僕だって強くないよ』と僕は言った。彼女は僕の指の形を自分の指でなぞった。さっき、別れると決めたと彼女は言ったのに、もうふれあわないと言ったのに、彼女は僕の指の形をなぞった。僕は今までにないくらいに気持ちが高ぶってしまって、『もう一度だけ、抱かせてくれないか』と......」

 もう一度だけ、抱かせてくれないか、という男の言葉が発せられた瞬間にフィルムが抜け落ちて、映画は唐突に終わる。映写室から聞こえてくるカランカランというリールが回る音を聞きながら、眩しいくらいの映写機の光に目を閉じる。