「ライカの帰還」騒動記(その9)

コミック市場への参入は「会社をあげてのプロジェクト」ではなかったのか? 私は取次での一件に、しばらくショックを隠せなかった。コミックコード取得への取り組みに、販売部長と編集担当取締役を伴っての交渉のはずが、こうまであっさりと引き下がれるものなのだろうか。田中さんから「あきらめよう!」と言われた瞬間から、私はすべての後ろ盾を失い、ピエロに成り下がった気分だった。

とにかく、これで「とんびの眼鏡」は単行本として世に出る機会を逸してしまったことになる。それだけに留まらず、オートバイ誌で連載中の小石くんの「マギ〜!」も、カメラマン誌の連載を引き継ぐ女性作家による新作品も、同様の運命を負うことになる。少なくともウチの会社から今後の展開はあり得ない、ということだ。夢を持って参加してくれた彼らに、どう説明すればいいのだろう。

私が原作を書いたことは間違いないのだけれど、吉原さんの手によって初めてコミックというカタチになった「とんびの眼鏡」は、作品としての完成度も極めて高い。それが、あえて安普請につくった廉価版にも係わらず、法外な価格を付けられた「総集編」だけで終わってしまえば、これは最悪の状況と言っていい。このままでは、作品を埋めてしまうことになり、それは承服できることではないのだ。

だからと言って打開する手段は思いつかない。深夜にクルマを飛ばし、公園墓地で眠れない夜を過ごすこともあった。ややあって、私は他の出版社から単行本を出してもらうということを思いついた。このままウヤムヤにされてたまるものか。ちゃんとした単行本を出してくれるところを捜そう。そうと決めたこの日から、私は「とんびの眼鏡・総集編」を手に、目ぼしい出版社を訪ね歩くことを決意する。

ウチの会社には、もちろん内緒だったが、吉原さんに黙って行動するわけには行かない。どう伝えたのか、それを聞いた吉原さんの反応はどうだったのか、幸か不幸かよく覚えていないのだけれど、相当に落胆されていたことは察するに余りある。だけど私は、それをバネにすることにした。「とんびの眼鏡・総集編」は世に出たとたん、間髪入れずに東京新聞の書評欄に取り上げられていたことも励みになった。

他出版社への売り込みは、けっして順調と言えるものではなかった。総集編というカタチではあるにせよ、ヨソの出版社が市場に出して間もない作品に、そうですかとドアを開いてくれるほど、甘い世の中ではなかったのだ。悩んだ挙句の私の足は、自然に小学館へと向かった。賞を与えながら吉原さんをボイコットしたこの会社が、単行本化を受けてくれるとは、これっぽちも思っていないのだけれど。

例の友人に会い、これまでの経緯を説明すると「何だ、それは?」とビックリするくらい怒り出した。まるで自分のことのように憤っている。私は彼のそんな様子を、これまで一度として見たことがなかったから、ちょっとドギマギしてしまったほどだ。すると後ろの方から「おー、船山くんじゃないか!」と声がかかった。見るとビッグコミックオリジナル誌の編集長に就任したばかりの亀井さんだった。

例の友人の先輩格にあたる亀井さんに、私は妙に可愛がられていた。彼は小山ゆうさんと組んで「がんばれ元気」などを担当し、メガヒットを立て続けに送り出した手練れの編集者でもある。彼にはかつて「作家に引き合わせるから」と、六本木のバーに呼び出されたことがある。ホイホイと出向いて行くと、そこには「哭きの竜」のヒットで一世風靡した能條純一さんがいて、かなりあわててしまった。

もちろん初対面だったけれど、亀井さんは私と能條さんの2人だけで話すことを促し、自分は聞き役に回ってしまう。話したのはほとんど私だけで、能條さんはときどき相槌を打つくらいだったと思う。話が終わると能條さんは「いい話を伺えました」と、ていねいに礼を言い、亀井さんは満足そうに頷いていた。私は汗びっしょりである。作家さんと話すのは、本当にエネルギーがいるものだと知らされた。

亀井さんの席に行くと、彼は私の手にした「とんびの眼鏡・総集編」を見て「おっ、できたんだね?」と言いながらサラサラと目を通して行く。この仕事に携わってわかったことのひとつに、プロのコミック編集者は実に読むのが早いということがある。ものすごい勢いでページをめくるのだけど、それでかなり細かいところまでを読み込んでしまうのだ。慣れなのだろうが、私にはちょっとマネができない。

亀井さんは少し考える様子をしたと思うと、本を手にしたまま立ち上がった。そして広大なフロアに点在するいくつもの編集部に向かい、本を頭上に掲げて「おい。ちょっと聞けや! 素人がこんなものつくってんだ! おまえらもっとしっかりしろ!」私は目をパチクリさせるばかりだ。彼は椅子に座ると「ゴメンな」と私に小声で告げる。これはまぎれもなく私と吉原さんに対する大賛辞であり、私は目頭が熱くなった。

何日かが過ぎ、私のオフィスでのこと。受付が小学館から電話だと言う。出てみると例の友人からで「新潮社が出すと言ってるけど、どうする?」と言う。え? 何を? と言うと「とんびだよ、とんび!」私はすぐには呑み込めずに、あわあわと言うばかりだった。「編集に引き合わせるから、出て来いや」私は電話を切ると、指定された喫茶店に飛ぶようにして向かった。新潮社が...!? アタマの中は真っ白である。

新潮社の編集者は女性だった。例の友人は「ところで船山、あの話に出てくるレイテで海に浸かってから戻ってきたライカって、借りられるのか?」と言う。うん、親父に訊いてみるけど、たぶん大丈夫だと思うよ。「よし、表紙にそれを使おう!」彼はまるで自分の仕事のように目を輝かせて言う。女性編集者を交えた話はどんどん具体的になり、わたしはようやく、これは本当のことなんだと思い始めた。

目の前の霧が晴れて行く、というのは、きっとこういうことなのだろう。女性編集者は、写真家である田中長徳さんの短いエッセイを入れることを提案し、表紙の撮影もお願いすると言う。私は巻末にこのストーリーのベースとなった「実際に撮影された写真」を載せることを提案し、巻末の解説は私が書かせてもらうことにした。これなら、ウチで出すつもりで考えていた単行本に限りなく近いものになる。

話はとんとん拍子に進み、私は吉原さんへの報告と親父への打診、カメラの借り出しや掲載する写真の確保に飛び回ることになる。例の友人は表紙のアイディアで、喜々としながら彼女と打ち合わせをしていた。これは彼にとってはもちろんのこと、私にとってもギャランティが発生する「仕事」ではない。だけど彼が一緒になって、この作品を世に出そうとしてくれていることに、感謝の念は尽きなかった。

その後、彼女を伴い、吉原さんと打ち合わせすることになるのだが、ここで2つばかり問題が生じた。まず、ひとつは単行本の束(つか)の関係で、12話のうち3話を落としてほしいと言われたこと。どれを落とすかは吉原さんと私に任せると言う。まぁ、仕方ないのかなと思っていたら、もうひとつは束の調整のために、何ページか描き足してくれと言うのだ。これはとうてい同意できるものではなかった。

私は巻末に掲載する写真を大きく扱うなどして調整できるのでは? と促したが、それで収まるページ数ではないと言う。1話を20ページに収めるという構成で成り立っている作品を、今さら弄るわけにはいかんでしょうと言うと、それでもこれは譲れないと言う。梃子(てこ)でも動かない様子だ。ヘソを曲げられて、この話を頓挫させては元も子もないので、やってみるとは言ったものの、大難題である。

案の定、吉原さんは顔を曇らせた。「船山さん、これ『出来上がってる』ものですよ?」私にしたって好きでやっているわけじゃない。自分で原作し、編集担当として自分でOKを出したものに手を加えることは、ある意味、自分を裏切ることだ。ここで私は原作者から、意地の悪い編集者に変身する。この話だけど、ここにこんなコマがあってもよかったんじゃない? すると吉原さんは腕を組み、むむむ...と考え込む。

膨らし粉を加えた料理のように、作品が間延びしてしまう怖れが充分すぎるほどあった。だけど仕事というものは「締め切りが存在しないと成立しない」ように、そのとき完璧だと信じて送り出したはずのものも、後になって「こうしておけばよかった」と悔やまれることは、ままあるものだ。私はそこに賭けるしかなかった。バランスを壊さずに、大きいコマをページごと挿入することをメインに、慎重に進めて行く。

吉原さんにとっても苦渋の作業だったに違いない。以前「F1もの」でやったように、1エピソードを加えて5ページ増やす、という手合いのものではないところが難しいのだ。それにしてもこの作品は、正開きにする大手術を行なったばかりだと言うのに、どうしてこんな目に遭い続けるのだろう。吉原さんに申しわけなく思いつつ、世に出すためのハードルの高さなのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。

これらの作業が一段落したとき、女性編集者は、もうひとつの提案を繰り出した。「この作品のタイトル『とんびの眼鏡』って、おかしいですよね? 最終話のタイトルになってる『ライカの帰還』にしちゃいませんか?」私はこれを聞いて、なるほど新潮社は版元となる以上、無理難題を押し通してでも「オリジナリティ」を求めているのだと確信するに至った。私は少しだけ考えて、潔く白旗を揚げることにした。