五月最後の日曜日。二週間ぶりの休日となるその日の午後、私は窓辺に座り、ベランダに並べた鉢植えの花がらを摘んでいた。春に咲き誇っていた花もそろそろ終わる。二日前から急激に気温はあがり、日中は三十度に達していた。とはいえ、夕方になれば涼風が吹き始め、夜には肌寒くもなるのだから、まだましか。暑い、暑い、と嘆いても、来週にはさらに鬱陶しい梅雨が来る。それが明ければ厳しい夏の到来だ。
そんなことを考えていると、突然机の上のコードレスフォンが鳴った。家の電話にかけてくるのは家族しかいない。駆け寄って手を伸ばすと、案の定、母だった。
S市で暮らす叔母の訃報。深夜、夫妻の家から出火し、隣家を巻き込み二棟全焼。八十六才の叔父はなんとか逃げることができたが、八十三歳の叔母は焼け跡から遺体で見つかったという。"黒焦げ"という言葉に思わず息を呑む。
地方都市であるS市では、その火事は、テレビのニュース番組でも取り上げられたらしい。インターネットの動画サイトにあがっているというので、受話器を耳に当てたまま、パソコンで検索してみると、ニュース映像はすぐに見つかった。
おぼろげな記憶として残る二階建ての家の窓から、赤々とした大きな炎が吹きあがっている。建物の外壁には損傷がないように見えるが、この後、焼け崩れたのだろうか。それとも、内側が使用不可能な状態になれば、それを全焼というのだろうか。そもそも全焼とは具体的にどういった状態を指すのか、私はさっぱりわかっていない。
母に頼み、替わってもらうと、妹は電話口でしくしくと泣いている。私は多忙にかまけて叔母とはすっかり疎遠になっていたが、妹は時々母と連れ立って会いに行っていたらしい。
私は涙が出なかった。家が全焼したということも、叔母が遺体で発見されたということも、日本語としては理解できるのだが、イメージが描けない。ゆえに、口から出る言葉も、「どうしちゃったんだろう」「どうしてそんなことになったんだろう」「信じられないよ」「想像できないよ」、そればかり。現実のことだと思い込もうとしても、いつまでたっても合わないピントのレンズを覗き込んでいるような気分で、その要領の悪さを恥じ入る気持ちもあって、私は薄ら笑いさえ浮かべてしまうのだった。それに引き替え、妹は、いま、ここで泣いている。情報を整理し、頭の中で組み立て、叔母の死を自分の生きる現実に引き込んでいる。私は物書きなどやっているけれど、実際は彼女のほうが想像力が豊かなのではないか、そう思った。
電話を切ってから、もう一度、ニュース映像を再生してみた。門から玄関まで並べられた敷石を踏んで、私は確かに、この家に入ったことがある。扉を開けると廊下があり、その左側に居間があった。台所は右側?そんな気がするけれど、定かではない。二階へ続く階段はどこにあったのだろう―。考えたのはそこまでだ。私は、夕飯の支度をするため立ち上がった。
蛍光灯の下で水を流し、白い米を研ぐ。このような事故に合わなかったとしても、叔母と私は疎遠なままで、顔を合わせることはなかっただろう。ならば、叔母は死んでいない、そういうことでどうだろう。会えないだけで、まだ生きている。叔母は生きている。そういうことにしたらいいではないか。
考えてみれば、私にはこんな風に、信じたくないことは信じない―電車の網棚に放り上げるように、無かったことにしてきたことがいくつもあるような気がした。
鼻歌を歌い、魚を焼く。サラダには摘んだばかりのルッコラを。私は冷蔵庫を開け、トマトを取り出した。今日は二週間ぶりの休日なのだ。