しもた屋之噺(152)

ふと気がついたことがあります。今月、自分はいわゆる忙しい人になっているのではないか、そう思った瞬間、背筋が寒くなりました。忙しいというのは仕事が沢山ある状態を云うのだとばかり信じておりましたから、自分と無縁の言葉だと思っていましたが、本人の仕事の処理能力を超えれば、それは既に忙しい状態なのだと漸く理解しました。元来生産性が低い人間が、忙しい毎日に陥るのは思いの外簡単だったのです。息子のためにせめてもう一日どこかで時間を作りたい、両親の処へ出かけたい、お墓参りしたい、大切な友人に会いたい、と思っても、何一つ実現できないまま一月が過ぎてしまいました。

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 8月某日 ミラノ自宅
ヴィオラの笠川さんミラノ来訪。微笑みの絶えないとても感じのよい方で、こちらはケーキの一つでも用意したいと思いつつ、周りの店は8月で軒並み休みで、唯一あいていたアイスクリーム屋でジェラート購入。

譜面を読みながら思うこと。作曲では、こうしたらどうなるか、という多少の冒険心が許されるだろうが、おそらく指揮では許されない。演奏者は具体的な方向性を指揮者に望んでいて、時間もごく限られている。困ったなと思う。

 8月某日 ミラノ自宅
パレスチナで凶弾に斃れた妊婦から取り出された赤ん坊が死亡。「悲しみにくれる女のように」という、バンショワを原曲とするアグリコラの作品を素材にデュオを書こうとしていて、この妊婦と赤ん坊のことが頭から離れない。自分にとって作曲とは、言語化できない感情を他人につたえる手段なのかもしれない。すこぶる原始的な理由。

世の中には、たぶん正しいことと正しくないことなど存在はしない。それを正しいと思うかどうか、のかすかな隔たりが、それらの間にあるだけ。だから、何がどれだけ正しいかと謳い競うのは、あまり意味がない気がする。

どれほどかうちのめされた
かなしみにくれる女のように
わたしはいつなんどきも
なぐさみをうける希望もない
不幸におしつぶされ
朝も晩もただ死を欲するばかり

恐らく原曲は乙女の失恋を唄っているのだろう。
一見明るいバンショワの旋律が、より強く胸に迫る。

 8月某日 三軒茶屋自宅
初台でSさんとポーランド料理のランチをたべる。彼は大学時代ワイマール共和国からナチス台頭までの時代を、日本社会党のブレーンだった教授のもとで勉強した後、好きだった音楽の道に進みたいと音楽学で音楽大学の院にすすみ、フルトヴェングラーが戦後指揮活動を止められていた頃に作曲した、交響曲第二番を卒論のテーマに選んだ。ドイツは文化が花開いた時期だが、イタリアではムッソリーニの農業政策などが実を結んで世界から認められていたころ。
彼は大学時代、ワイマール共和国が、さまざまな歴史的分岐点で別の選択をしていたとしたらその後の歴史にどう影響を与えただろうかという仮定と検証を行っていた。
「面白かったですよ。でも今は、むしろ現在の日本とワイマール共和国とをつい比べてしまう」。

 8月某日 三軒茶屋自宅
横浜近郊の駅ビルでカレーを食べていると、隣のテーブルで60歳くらいの女性が四方山話をしているイントネーションが湯河原のそれに似ていて驚く。ハマ言葉とか言うくらいだから、横浜あたりは全然違う訛りだと思い込んでいた。

武満さんの「カシオペア」自筆譜をたずさえ、すみれさん宅へ一石さんとお邪魔する。先月末にミラノで受け取った自筆譜には、冒頭の速度表示も、練習番号も小節番号もなく、打楽器のパートも殆ど書き込まれていないので、一石さんにお願いしてオーケストラのパート譜を一部送っていただき再構成した。何日か夜明けまで譜読みして、何とかすみれさん宅にでかけると、すみれさんのお宅で、ていねいに書き込まれた打楽器パートを目にしておどろく。その上、前回若杉さんが使われた浄書譜をみて力が抜けた。今更こちらを使う時間もないが、どうしたものか。

尤も、自筆の初稿で勉強したのは、もちろん意味があった。ページごとにブロックとして書かれていて、その中では和音が一定であったり、フレーズ構造がまとまっていたりする。だから寧ろたとえページを入れ替えても差し支えがないのだろう。パート譜に書かれた練習番号の順番が入れ違いになっているところを見ると、当初は違う順番でページが並んでいたのかもしれない。

すみれさん宅に並ぶ夥しい打楽器を見ると、眞木さんや八村さんはこれらの楽器を手にとって曲を書かれたのだなと、感慨をおぼえる。すみれさんの演奏される姿は、子供のころから数え切れないほど演奏会でみていたままで、そんな当たり前のことに感激する。渋谷のトップでコーヒーを挽いてもらい帰宅。

 8月某日 三軒茶屋自宅
ラジオで8月15日が何の日か知らない若者が多いというニュース。彼らがそれを知らなくても生きてゆけるような文化を培ってきたのは、我々自身であって、責めるべきは彼らではない。何が正しいという以前に、これでは近隣諸国と齟齬が埋まらないのは当然かもしれないし、温度差が広がりそうでこわい。ともあれ、ラジオを聴きながら、近所の豆腐屋の出来立ての木綿豆腐を食べられる幸せをかみしめる。

漸く芥川賞の譜面に集中できると思いきや、Sさんより電話。手伝ってほしいことがあって、とわざわざ三軒茶屋までいらして、楽譜を届けてくださる。一見すると理解できない譜面で、自分で役に立つのか不安。リハーサルは3日後なので、秋吉台から半日ぬけなければならない。

 8月某日 羽田空港にて
Kの楽譜を一日読む。楽譜にびっしりと書き込まれた分厚い注釈に面食らい、英語に訳されたガイドをペンで楽譜に書き込んで一日が終わってしまう。そのあと夕方から明け方にかけて譜割り。慌てて荷造りをして、息子と羽田空港へやってきた。飛行機で寝るつもりだが、今週と来週をどう乗り切るのか想像するだけで寒気がしている。

 8月某日 秋吉台にて
生まれて初めて秋吉台にやってきた。学生時分からここの音楽祭に来てみたいと思っていたけれど、恐らく一歩を踏み出す勇気と自信がなかった。だから、こうしてここに参加している学生をみると、あの頃の自分よりずっと頼もしくみえるし、こちらが励ますのも少しおこがましいような気さえしてくる。
昨晩は23時すぎまで作曲学生と演奏家で集い、彼らが楽譜の読み難さについて話しあうのをきいていた。一見読みやすそうに見える浄書ソフトの功罪。手書きの楽譜がより読みやすいことは確かに多い。

慌てて息子を寝かせ、芥川賞の譜読み。夜半、雨足が強くなり、叩きつけるような雨。布団はひいてあるが、横になれないまま朝。
朝、竹藤さんと木下くんの自作を聞かせてもらって、11時半にTさんの車で宇部空港へゆき、家人と入れ替わりに東京にもどる。車中、Tさんが音楽を志したきっかけなどを聞き、心を打たれた。先日のSさんにしてもTさんにしても、ただ漫然と幼少から音楽を続けて音楽家になるより、ずっと深い情熱を感じる。
家人が羽田空港に忘れてきたトランクを受取りにでかけ、コインロッカーに預けてから、リハーサル会場に向かう。

リハーサルでは一度通して聞かせていただいてから、お互い手探りで限られた時間で何をどうしたいのか考える。皆さん錚々たる演奏家の方々だから、こんな風にやってみたらどうかと提案するだけで、次々に新しいアイデアが生まれて、その度にまた新しい問題が生まれてくるのを、あれこれ話しつつ解決してゆくのは楽しい。チーニ財団の委嘱で98年にピサーティが楽譜を再構成し、エミリオが蘇演したノーノの「森はわかわかしく生命に満ちている」も、こんな作業だったに違いないと想像しながら羽田に戻る。

あの世代の作曲家の歴史的作品を、今後どのようなスタンスでどう演奏してゆくのか、伝統と旧弊の継承と因襲は、今後我々の世代の大切なテーマになる。活発で開かれた議論こそが、文化全体をより深いものに培ってゆく。音楽は再現のみならず、常に創造的でなければならないが、恣意的な創造性に身を委ねると後戻りもできなくなる危険が潜む。自らの過信が一番怖いのだが、演奏は何か明確な方向性がなければひとつに纏まらない。結局古典派もロマン派も近代音楽も現代音楽もまったく同じ。朝5時に目覚ましをセットして今日は眠ることにする。

 8月某日 秋吉台にて
不謹慎とは思いつつ部屋の一番後ろでSくんの楽譜を勉強しながら、徳永崇くんの話をきく。彼がかけてくれた岩手の秘謡「氷口御祝(すがぐちごいわい)」のヴィデオが特におもしろい。男性が高砂を謡い、女性が萬鶴亀(まがき)節をアイブスのように重ねて謡う。

湯浅先生も先日同時に複数の時間を一つの曲に重ねることについて話されていたが、今日は徳永くんがツァイトマッセや、グルッペンについて触れていた。作曲家からすれば、それは純粋に知的好奇心をそそる研究だろうし、演奏家からすれば時間構造が出会う部分で得られる快感かもしれない。聴き手からすれば、それらが組合わさって醸し出されるスリルやエンターテイメント性かもしれない。
先日の夜半の豪雨が、隣の広島で甚大な被害をもたらしたことを知る。

 8月某日 秋吉台にて
鈴木くんや田中くんの面白いレクチャーを聞いて、何も準備をせず秋吉台にやってきた自分を恨めしくおもう。結局作曲の近藤くんが書いてきた「ウサギとカメ」の5音のモチーフと「akiyoshidai」というアルファベットで、たとえばどのように自分なら展開させるか、ボードに五線譜を描いて即席でやることにする。
作曲のレッスンを見学していて、どうして揃って皆がモチーフを変容させずに使うのか、不思議だったからでもある。やってみたのはアルゴリズムのものすごく原始的な方法だが、これをコンピュータでやるのと、手で変化させるのは音が違ってくる不思議について、湯浅先生や田中君が話す。

毎晩のひらかれていた演奏会はどれも素晴らしく、到底一つ一つ書ききれない。特に先入観もなく秋吉台にやってきたが、結果として忘れ難い経験になった。一週間で作曲の学生さんたちと何が出来るのか不安だったけれど、皆さんがとても熱心で、本番は見違えるようだった。ただ譜読みを深夜から朝にかけてするしかないのが辛い。布団には一度も入れなかったし、夜半は睡魔と夢と現実が交錯する幻想的な世界に陥り、後で見ると自分の書き込みの意味がわからない。

 8月某日 三軒茶屋自宅
昨日は羽田からそのまま練習場に向かった。傍らのMさんに詳しく教えてもらいながら、昨日はそれを演奏家に伝えるに留める。それを踏まえて、与えられたごく限られた時間のなか今日何ができるか、練習場に向かう電車のなかで書き留める。
無意識にシェルシやザッパの楽譜を思い浮かべながら、Mさんの教えを枠として演奏家を規定するのではなく、彼ららしい演奏の結果としてその枠が自然と浮き上がるようにしたいとおもう。作曲者がそうとしか書きとめられなかった音楽のすがたを、思い描いてほしいとお願いする。恣意的に傾きすぎぬよう、皆さんのもつ古典の枠組みをうまく生かしたい。

(8月30日 三軒茶屋にて)