物語と構造

今年もやたらに暑い8月は終わり、少々気が抜けたように気温が落ち着いている。あまりにも暑かったからという理由で、蚊が少なかったと言われるが、そもそも、蚊は暑い時期よりも少々涼しい時期の方が刺される確率がもともと高かったような気もする。ただし、このところ、40度近い気温が普通になった感もあり、昆虫もあまり住みやすいとは言えなくなったのかもしれない。住みにくいと言えば、庭の何本かの植木も夏、葉を落とすのが当たり前のようになってしまっている。まるで、雨季と乾季のある地域のようだが、このところの気温はまるでそういった熱帯の様相を帯びている。

さて、様々なメディアでいろいろな物語が始まり、そして終わっている。
それは小説に限らず、ドラマだったり、映画だったり、コミックだったり、アニメだったりするのだが、それらで面白いと感じるのには、それ相応の構造があるのではないか? などと考える日々である。

ストーリーの物珍しい物語は面白く感じる。しかし、それは珍しいだけで、たいていの場合は本質的な面白さが伴わなければ、つまらなくなる。本質的に面白い物語は、物語に構造をもっている。そして、その構造が入り組んで、後の気づきが多いほど面白いと感じることが多いように思う。ただし、それはストーリーや登場人物の関係が複雑であれば、よいというのとは違うだろう。ストーリーはシンプルでも、心の動きがきちんと構造を持って変化する物語は面白い。

逆に、唸ってしまうのは、昔の新聞連載だ。長い連載の中で変化してしまったストーリーは、たとえ、複雑な人間関係を構築できたとしても面白いとは思えない。そこには、たぶん、伏線が張れていないことで、物語が平板になってしまっているからなのかもしれない。

そういえば、ミステリーにのめりこんだ昔、当時の二大巨頭であったクイーンとクリスティを比べて、クリスティは明らかにストーリーテラーだなと思ったことがあった。現在の人気を見て、クリスティがまだ第一線の人気作家であることを考えると、あらゆる分野でストーリテラーが面白い条件なのかもしれない。ストーリーテラーの条件は、物語を平板にしない構造だとすれば、物語と構造は密接な関係がある。

実は、物語と構造を強く意識させられたのは、小説ではなく、ゲームの世界だった。ゲームの世界では、ゲームシステムが優劣を決すると考えられがちだが、実際には、売れるゲームには優れた物語があり、その物語にはゲームをする人間を虜にする構造がある。言わば、物語はそれを構成するシステムの出来次第で面白くまなれば、つまらなくもなる。結局、思考の先がシステムに戻った次第である。