お葬式の写真

なんだか、私のエッセイにはお葬式関係の話が多いような気もするのだが、最近もジャワで何人か高名な舞踊家やダランが亡くなり、なんだか書いてみたくなったのでまた1つ...。ジャワでは、お葬式風景を写真に撮ることはよくある。祭壇、出棺の様子、参列者の様子だけでなくて、遺体と一緒に記念撮影というのもわりとするみたいだ。私の舞踊の師匠の家や知り合いの家で、そういう写真を見せてもらった。また、1998年、私の舞踊の師匠の旦那様が亡くなったときには、サルドノ・クスモ氏が来て、せっせと写真を撮っていたのが記憶に残っている。故人はサルドノ氏の舞踊の師匠だったから、ジャワの基準ではサルドノ氏が写真を撮るのは変でもなんでもない。しかし、このときは私にとってジャワで2回目に経験したお葬式だったので、当時は驚いたものだ。いま、インドネシアではフェイスブックが盛んなので、お葬式の写真もよくアップされる。故人の死に顔の写真もあるから、遺体の写真を撮るのは良くないという感覚は、あまりない気がする。

そういう私は、昨年父が亡くなった時に、枕経をあげるところから折々に葬儀と遺体の写真を撮った。葬儀の流れを記録に残しておきたかったし、ジャワのように写真に撮ってもいいじゃないかという感覚になっていたからでもある。けれど、自宅でいる間は良かったが、告別式の時に時折シャッターを押すと、他の参列者や葬儀社のスタッフからの白い視線を感じる。「ご遺族様」が一番前でカメラを構えているのはさすがに目立つのか...。父の告別式は斎場と火葬場が併設された所で行ったのだが、告別式の後、葬儀社の人に「火葬炉は神聖な所ですから写真を撮らないでください」と言い渡されてしまった。後日、同世代の僧侶2人に会うことがあったので、葬儀の写真について聞いてみると、いまでは葬儀社がサービスとして写真を撮ることもあるし、全然気にしないというのが彼らの弁。さらに、「え、火葬炉の前で写真は撮るのはだめなの?」という反応。ということは、火葬炉を神聖視するのは、宗教ではなく慣習の問題のようだ。

そうやって撮った写真もずっと見ていなかったのだが、最近になって取り出して見る。目を閉じた父の顔は、驚くほど祖父に生き写しだ。もっとも、祖父は私が小学校に上がる前に亡くなったので、私の記憶にある祖父の顔はアルバムの写真の顔なのだが、それでも首をちょっとかしげた癖がそっくりだ。年を取るにつれて、父は祖父に似てきたと母は言っていたけれど、最期には、なんだか祖父に同化してしまったような気もする。それがわかっただけでも、写真を撮ってよかったなと思える。

お葬式にはバチバチ写真を撮った私も、父が生前に入院したときには病院で一枚も写真を撮っていない。そのときの方が、なんだか撮ってはいけない気がしたからだ。その点は、私の感覚はジャワの人たちと少し違うのかもしれない。ジャワの人は、入院して面影が痛々しいくらい変わった人の写真も、案外フェイスブックにアップしていたりする。ジャワでは大挙してICUに入った人のお見舞いに行ったりするから、ありのままの病人の姿を見せることに家族もあまり抵抗がないのかもしれないし、むしろ遠方で来てもらえない人へのサービスなのかも知れない。全体として言えるのは、家族が病気や死をことさら隠そうとはしないこと。そして、本人と家族だけでそれらに向き合うのではなくて、共同体の皆で受け止めるという感覚があること。日本でお葬式の写真を撮ることに抵抗があるのは、死を厳粛で神聖なものだと思うからだが、逆に、死を忌避しているからだとも言える。