9月27日の東京公演に行った。札幌や山口から来た人たちもいて、こんな時でなければ会うこともない人たちに、何十年ぶりの挨拶をかわした。
タイもすっかり変わったのかもしれないが、1974年にバンドができてから、何回かのクーデターや政変を経ても、スラチャイとモンコンの2人は活動を続けているし、それぞれ別なバンドも作って公演してもいるようだ。今度もまだ学生のコンカモンとスラチャイの息子カントルムという、オリジナルの歌を聞いて育った世代といっしょに演奏している。豊田勇造ともすっかりなじんだ音楽のやりとりがあった。農民も水牛もあの頃とはちがうだろうが、日が沈み、セミが鳴き、風や空があって、平和や自由ということばも、まだいきいきと歌えるのだろう。
ギターや、ゆるいリズム、タイ東北の限られた音をことばの微妙な抑揚で使いまわすメロディーはあいかわらずで、歌で世界のなかに立っている姿勢は、草のようにしなやかに見える。ゆったりしているが、スラチャイの声は細く高く、弱くて勁い。色っぽく、おかしくもある。モンコンの粗さを含んだ低い温かい声とは対照的で、この2つの声の出会いが、年月を経て削ぎ落とされたカラワンの歌をいまだに織りつづけているのだろう。同時代に出発した他のバンドは、アメリカのフォークの影響からぬけられなかった。不器用で政治性だけで聞かせていたそれらのバンドはもう聞かれない。「カラワン」だけは、その田舎っぽさでここまで生き延びたのだから、柔軟な姿勢もあるが、ユニークな音楽のちからが大きいのだろう。 「浮かれ騒いだメイドイン・ジャパンとU.S.A.のプラスティック・バンドが消えたあとも、貧民の牛車のキャラバンはすすむ」、という「カラワン」のテーマソングそのままに。
水牛楽団は10年も続かなかった。80年代の日本のバブル経済のなかで労働運動も市民運動もなくなってしまい、20年後に起こってきた別な運動とのつながりもない状態という外部環境のせいだけでなく、内部組織や考えかた・感じかたの不自由さで崩れたとも言える面がある。残っているのは電子領域の「水牛のように」というこのことばの場になった。「水牛楽団」の録音を集めてCDにしてみたときに、「こんなにへたで、ばらばらだ」と言われ、何となくそう思っていた音楽が、ずれと多様さを生かす一つのモデルとしていまだに使えるという感じがした。しかし、グループもなく、それを支える人びとはない。音楽はちがう場所に隠れている。
日本では、自然とか平和主義というだけでウソに聞こえ、だれともしれないあぶらぎった顔まで浮かんでしまう。微笑みの裏に暴力をひそませているタイの権力と、偽善と絆という拘束で支配する日本では 音のかたちもちがう、とふだんは思っているが、こんなに単純で繊細な声を聞くと、ちがう状況でも、まったくあたらしいあらわれのなかに、この声を生かせないかと思うときがある。