やはり物事は仙人から教わるのがよい。仙人というのは会えるんだか会えないんだか話が聞けるんだか聞けないんだかあやふやで山奥にでも棲まっているというのが相場であるけれどもこの場合は尖った山ではなく海の向こうでむしろ電子の彼方と言おうか、いわば電子の歌姫ならぬ電子の仙人といった趣である。
スティーヴという名のおじいさんはこちらからしてみれば文字しか見えないため本当におじいさんなのかすらわからないのだがおそらくはその含蓄ある物言いから相当の年齢であることは自ずと知られ、高校生の自分が何やら拙い英語でメールを書くやすぐさま理知的な教えをくださるたいへんありがたい存在であった。手元では調べのつかないこと、自分の考えの足りないところ、知識というものを、電子を介しながらろくに言葉もわからないような小童に平たく(あるいは簡潔に)伝えるそのさまは、受け取る生意気な小童にしても感銘を受けざるを得ない。
趣味の関係からこのおじいさんとはつながりができたのだが、国内で同じ趣味を持つ大人たちというのは、とかく押しつけがましく妄想をたくましゅうするため、当時の自分はまったく理性的な話ができないとすこぶる不満であった。その趣味の中心話題たる架空の人物は、その時代にあってかなりの論理的思考を持つというのに、その人物を好きだとかいう人々がどうしてそのように非論理的であるのかさっぱりわからないといった風情の自分にとって、その仙人はほとんど初めてと言っていいほどに〈その人物〉に近い思考を持つ人であった。
スティーヴ仙人が教えてくれたことはたくさんある。ソとスのこと、膝のこと、うら若き未亡人のこと、色彩と音楽のこと、研ぎ石のこと、友人と昔話をした日付のこと――ただ仙人はアドバイスというものを一度もしなかった。それまでに会ってきた同趣味の大人たちはみな一様にああした方がいいこうした方がいいと言い、自分も最初のうちはむしろそれを積極的に求めようとしていたふしさえあるのだが、やがてそれは忠告というよりも妄言といった類のものになっていき(あるいはそもそもからそうであったのかもしれない)、何かしら身勝手な理想へと近づいていくのだが、かたや仙人は指図めいたものを一切しなかった。指導すらなく、ひたすら問いに答えるといった風であった。
問えば応え、問わねば応えぬ。霞ではなく電気を食べて生きる仙人は、むしろこちらの問いの質こそ試しているようにも思えた。ただ仙人を紹介してくれた女性によれば、くだらない雑談でも喜んでくれるとのことだったから、こちらがただ仙人扱いをしていただけだったのかもしれないが。そのポール・スティーヴン・クラークソンJrが亡くなったのはそれから五年ほど後のことで、六五歳だったという。想像していたよりは、若かった。
ただその事実を知ったのは後年のことで、あわあわとした不安定な通信のなかで少年が育つにつれ仙人は電子の海に隠れたという印象しかない。ネットワークという霧に覆われた網の向こうにいる賢者だったが、実際には会えないという距離をしてやはり仙人然としたものに思わせたのだろう。少年とは勝手に学ぶ生き物であって、また少年もわきまえたものでうってつけの仙人を探しただけかもしれない。
仙人とまでは行かなくても電脳の網でほんの少しだけ近しく接した多くの人々というのは妖精のようなもので、少年の主観から見ればひらひらふわふわと何かの拍子に寄ってきては何か会話なりいたずらなりをして物陰に去って行くそれである。思い返してみればいずれの相手とも今や通信はない。渦のある街で働いていたという上司嫌いのエルフの女性は元気だろうか。北の大地で看護士を目指していたらしいピクシーの女の子はどうだろうか。そのとき語った言葉とともに空気のなかへと溶けてしまった。
しかしなかでもノーム種の男性については、いまだにひょっこり出てくるのではないかと思われるところがある。自分よりも一〇ほど年長で、かぶっている帽子のことを触覚だとして取ると死にますと言い張る人物であったが、その持ち前の知性と、大地の怒りとが、電子の潮の満ち引きのようにやってくるのが常だった。
彼もまた同じ趣味・関心を持ってはいたが、いつも局外者で、山奥というよりは孤島にひとり棲まっている風情があった(むろん実際に住んではいない)。世を儚み隠棲しつつも、時には吠え、無知と不正義を呪った。彼からしてみても、当初は私自身も呪詛の対象であったのかもしれないが、混沌の周辺、漢語の使い方、コメディアンの真価について等々――幾度とない対立を経て、共感のようなものが生まれるようになる。
やはり自分も彼にとっては何かしらの妖精であったのではないかと思われるふしがある。彼はやはり土らしく、ずんっ、ずんっ、といった振る舞いであったが、自分について考えてみると、どちらかと言えば風のように、そより、そよる、といった感じであったから、シルフのようなものだろうか。彼が私のことを、一種のそよ風や涼風のように楽しんでくれたということでもある。暑苦しく彼自身嫌う俗世間のなかを、あるいは荒れる怒りに熱っぽくなっている彼のそばを、私がたまにふわりと通りがかると、何やら彼は嬉しそうな反応をしたのである。
そこで私は私で、彼の性格を知っているから、いじわるっぽく微笑むのであるのだけれども、そうしてみると電子の世界で妖精であるというのは、あながち悪いことではないのかもしれない。何かしらの場所に、そよそよと立ち寄るというのはむろん現実でも好むことではあるけれども、どちらかといえば現実ではさしたる姿として見えないが、仮想空間ではどうやら妖精然と具象化されるようなのである。
孤島に立ち寄る風の精でこれからもありたいし、またゆくゆくは電子の仙人のような境地にも至ってみたい。物質的なものでないというのがやはり重要なのだろう。私たちの関係は、琥珀の力を通じて静かにつながっては切れるが、見えないからこそその道の始まりと終わりに互いにほのかな実存が観じられるというわけだ。