しもた屋之噺(153)

夏前からの無理がたたり、昨日から毎度の眩暈で倒れていましたが、今日はこうして何とか少しずつ原稿が書けるまで快復しました。今日は曇り。暑いとも寒いともいえない気温です。これで晴れていれば一年中で一番過ごしやすい季節で、とも書けるのでしょうが、太陽が見えないだけで、どうとも表現できない、目の前の乳白色の空のような不思議な心地になるのですね。子供のころ家族で登った御嶽山のことを思い出しながら、日記をいくつか抜書きしてみます。

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 9月某日
ミラノへの機中。昨日の芥川賞のあとで、家人と息子と沢井さん宅による。初めて目にする五絃琴と17絃箏に息子は大喜び。沢井さんが目の前で弾いてみせてくださる17絃に目を輝かせる。木戸さんからは、湖北省で発掘された当初の中国語で書かれた五絃琴の報告書のコピーをいただく。

今回の芥川作曲賞では、二つ大きな勉強をさせてもらった。睡眠不足がたたると、自分のテンポの感覚は狂ってしまうこと。それから、恣意的に楽譜を読まないように努めているつもりでも、それだけでは充分ではないということ。

コーネリウス・シュヴェアが書いた戦艦ポチョムキンのためのスコアを読む。まずタイミングを整理し、分数を細かく割り出し、譜割りする。気の遠くなる作業。譜読みは読書の代わりを果たすわけだが、曲をどう振るかというより、寧ろその曲がどのように作られているのか知りたくなることが多く、甚だ時間を無駄にしている気がする。

 9月某日
ジュネーブへの車中。目の前でアメリカ人の中年旅行者グループが、互いに写真を撮り合ったりして楽しそうだが、声が大きく周りの乗客はうんざりしている。
8月に息子が「赤毛のアン」のアニメをずっと見ていたのをぼんやり思い出し、あの属9度で始まる三善先生の主題歌が頭に浮かび、サブドミナントの借用和音など、先生がサワリとカタカナで書かれた音が心に沁みる。

あの和音が書いてみたくて、学生時代にコマーシャルなど嬉々としてこなしていた。北陸銀行のコマーシャルを書いたとき、録音が終わってブースに戻ると、妙齢の担当者が感動して泣いてらしたのが、あのサワリの音の魔法だった。赤毛のアンの主人公は、まるで息子の性格にそっくりで、共感を覚えて見入っていた。

 9月某日
洋楽器と邦楽器の演奏法のちがいについて、先日のリハーサルのあとの龍笛の岩亀さんの言葉がずっと反芻している。「同じ山に昇ろうとしているのだけれど、辿る道が違うというのかしら」。

西洋の定量記譜を、邦楽風に読むときの感じは、ほんの少しだけオラショを思い起こさせる。拍節感がまず変わる。アップビートがなくなり、ダウンビートのみで数える。アップビートがない分、テンポは束縛から解放され、かなり自由に浮遊できる。テンポが水平に延びてゆけば、そこにはメリスマ調の足跡が残される。

そう思ってから、バンショワの旋律を違う視点で眺めてみる。リズムがとけ、音高の点から無数の細い糸が横に延びる。イスラエル国歌とパレスチナ国歌をからめて、先月来ずっと引き曳っている思いにかえたい。

 9月某日
ジュネーブ ピトエフ劇場でのリハーサル前日夜になって、コーネリウスの使った英語版ポチョムキンと、今回使う仏語版ポチョムキンの尺が7分も違うことを知る。

楽器のみのリハーサルの後、ふと気になったので、ミヒャエルに一応明日からのヴィデオを見せてくれと頼み、ホテルで眺めてみると全く長さが違う。見当もつかず途方に暮れ、勢い余っていつものインドカレーを食べに出かけると、いつしかエチオピア料理屋に変わっていた。
エチオピア料理がどんなものか知らなかったし、カレーを食べるつもりだったので、斜向かいのタイ料理屋でレッドカレーとトムヤムクンを食べ、帰りに駅構内のスーパーでバナナを一房買い、風呂に入って寝てしまった。

それでも気が弱いものだから、朝3時くらいにはしっかり起きて、一つ一つタイミング合わせの場所を調べ直し、その中に何とか収まるように秒数を計算し直してゆく。
10時からの練習に間に合わせるため、9時半まで必死に計算をして、バナナを齧りながら祈る思いでタクシーに飛び乗る。計算といっても、ひたすら引き算をしてゆく作業なので、息子が先日までやっていたドリルを思い出す。恐らく息子の方が計算間違えは少ない。

 9月某日
1907年から9年にジョゼフ・マーシャルによって建てられたピトエフ劇場は、ラヴェルの実弟が描いた大きな壁画が残る、古典様式とアール・ヌーヴォーの折衷様式が美しい。ジュネーブの街はいつ来ても暮らしやすそうな印象を受ける。どことなく明るく輝いてみえるのは、湖があるせいか。

マチネの本番が終わり、隣のイタリア料理屋で簡単な昼食をとり、ボタンをつけるため近くのスーパーで針と糸、改めてバナナを購い控室でボタンつけ。トラムで駅前のホテルに戻って、ソワレまで休み、慌てて劇場に戻った。本番後、ブリスやコーネリアスとホテルまで歩く。
ブリスとは作曲中の室内オペラや、新しく購入したクラブサンのはなし。コーネリアスとは、フライブルグ音大での映画音楽作曲科のカリキュラムについて。

 9月某日
生まれて初めてのミュンヘンで、初めてウルフ・ヴァインマンに会う。空港から中央駅までの近郊電車でも、みな表情が明るいのが印象に残る。奨められるまま白ワインを口にすると、美味しくて呑み過ぎそうになった。自分の名前もヴァインマンというくらいで、ワイン好きに悪いのはいないと笑う。

なぜ現代音楽のレーベルを作ったのかと質問すると、自分が知らないものを発見したいからだという。たとえ初め自分が好きではない音楽であっても、自分はそこから何かを学びたいから録音してきたのだそうだ。
夜、鴨肉とクヌーデルとビールで夕食。美味。疲労と心地よい酔いがまわって夜行寝台で熟睡し、夜半に目を覚ますとちょうどブレンネル峠を越え、ブレッサノーネをさしかかったところだった。
この辺りはまだBrixenと駅名も独語で併記されている。

 9月某日
今朝6時にメールをチェックすると、成田を一人で出発する息子の写真が義妹より届いた。頼もしく誇らしい精悍な顔つきに見えるのは、少し緊張しているからか。大したものだと感心。
息子自身の希望もあって、子供の一人旅のサービスを頼んだが、この間まで誰がこんなサービスを使うのだろうと不思議に思っていたくらいで、まさか自分が頼むことになるとは想像もしなかった。
こちらが緊張して空港へ迎えにゆくと、思いの外寛いだ顔で出てきて拍子抜けする。

 9月某日
仲宗根さんからのメール。何度か沖縄の「屋号」について教えていただく。頭では分かるけれど、実際にどう息づいているのか、メールを頂くたびに自分の目で見てみたい思いに駆られる。
「歴史をみると、たとえば日本書紀というものは、勝者が書いたものだと思うのです。その時勝者が本当に正しかったかはわかりません。沖縄でも同じです。琉球王朝に叛旗を翻した者は数々いるとおもいます」。

沖縄の歴史を教えていただきながら、マルタやキプロスのような小国が長く英国領だったことを思い出し、長くイタリア領でありながら、現在は仏領となっているコルシカの歴史などを読み返す。

コルシカやそのすぐ下にあるサルデーニャには独自の古い言語体系が残っていて、コルシカには古いイタリア語方言が、サルデーニャには古いロマンス語が息づいているのも似ている。

同じように現在に伝えられる沖縄の諸言語がユネスコの消滅危機言語に指定されているのを思い出し、幾つか録音をインターネットで探す。仲宗根さんも言われるとおり、いつの間に標準語の母音が五つになってしまったのか残念に思うほど、豊かな響きがする。

その折、大学時分文献を読んでずっと憧れていた八丈語もインターネットで初めて耳にして、興奮と驚きを禁じえなかったのは、想像以上に万葉に近い響きを実感したから。言葉の美しさに文字通り聞き惚れる。

 9月某日
来年初めに書く、波多野さんのための歌のテキストを漸く決める。三浦さんからずっと早く題名を決めてほしいといわれていて、半年間どうにも決められなかった。

賑々しい詩を探し続けていたが、ここ暫くイスラム国の処刑のニュースが続いていたところに、昨日はアルジェリアでフランス人のガイドが殺害され、神戸で女児が殺害されて、衝動にかられ、改めてクロード・イーザリーがギュンター・アンデルスに書いた手紙を全て読み返してみたが、何か違う。

あの時イーザリーは、自分が伝えたいものを伝えられぬ忸怩たる思いにかられていたけれど、今自分が書かなければならないのは、それとは少し違う。
久保山愛吉の資料も改めて読み返してみたが、これをそのままテキストにするのはむつかしいだろうし、特定の国家や人物を糾弾したいのではない。
ジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」のような透徹とした視点で、何かいえるものはないか。

結局、「国破山河在」の「春望」と、「戦哭新鬼多」の「対雪」を使うことにする。杜甫の視点の鋭さに、あらためて心を打たれる。

(9月30日ミラノにて)