ポンプで地下深くから汲み上げる水は、夏は冷たく、冬は適度にぬるく、そして美味しかった。そのことを知ったのは'68年に東京に出てからだ。あこがれのメトロポリスで水道の蛇口から流れる水は、しかし、夏は生温く、冬は指がしびれるほど冷たかった。なんだか裏切られたような気分がした。最初はふっと気味の悪い、薬臭い味も感じたけれど、やがて慣れた。人はなんにでも慣れるものだ。
あのころ東京の標準的アパートには浴室はもちろん洗濯機さえなく、洗濯はすべて手洗い。コインランドリーが出現するのはそれから10年以上あとのことで、冬は手のひらも指も真っ赤になった。電気代、ガス代、水道代を計算した紙を手にした大家さんがドアを叩いたとき、水道代というものがこの世に存在することを初めて知った。東京では水にお金を払って暮らすのか、とちょっと驚いたのは、たかだか半世紀前のことだ。
人混みにも気持ちがくじけた。池袋、新宿などの地下道を歩くときは、どういうわけか決まって人とぶつかりそうになる。だから歩き方も学ばなければならなかった。向こうから歩いてくる人に視線を合わせてはいけない、少し横に焦点をずらして歩けばぶつからなくてすむ、と気づいたのは、半年くらいたってからだ。パンフォーカス歩きの習得である。
初めての夏休み、北海道へ帰省したときに感じた空間をめぐる身体レベルの体験は「劇的」ということばがふさわしい。このときの感覚は身体の奥にいまも眠っていて、いつでも取り出し可能だ。汽車(北海道では「電車」とは呼ばない)の車両から荷物をかかえて降り立った滝川駅のホームは、東京の山手線の駅にくらべるとほぼ無人といってもいいほどの人気のなさ。その「カラッポ」感に、ステップを降りたとたん身体が前につんのめりそうになった。この身体感覚が3年ほど前、南アフリカのカルーを訪ねたとき、思いがけずよみがえってきたときは驚いた。そこにはまさに、つんのめるようなエンプティネスが広がっていたのだ。
話しことばの最後に「だわ」とか「よね」とか「かしら」なんて女性特有の助詞をつけることも、その独特のイントネーションも、東京育ちの友人たちとの会話から日々、習得に余念がなかったものの、夏休みや冬休みに帰省するや、語尾の重たい北海道弁にすぐにもどってしまった。東京風のことば遣いをすると「なに、すかしてんの?」と言われて完全に周囲から浮いてしまうのだ。
これは高校一年のとき、逆の立場ですでに経験済み。東京から転校生のAさんがやってきた。髪が少し赤く、話し方が軽やかで、手を口にあてて微かに笑う。ただそれだけのことで、ひどくよそよそしく感じられた。いま思うと笑える。だが、それが人と人の関係の冷たさのようにも感じられたのは一考にあたいするか、どうか。おなじ日本語でも、分厚い膜がすっとかかるその感覚を初めて経験した瞬間だったのだから。遠い「東京」を辺境でちらりと垣間見る思いがしたのだろう。その落差を、今度は自分がかもしだすことになる、と不安になって、帰省のたびに咄嗟にカチリとモード切り替えが行われたのだろう。まさに、ディープな田舎と都会の行ったり来たりである。
しかし、そんな微妙な差異やモードの切り替えを意識していたのは、最初の一、二年のうちで、大都会の生活習慣になじむにつれて、やがてどんどん鈍感になっていった。都会生活に溶け込むことが最優先課題となり、ことば遣いも東京風に近づいて、やがて地下水のことも忘れてしまった。その感覚を呼びもどしたい、消えてしまう記憶を記録したい、と思うようになったのは、たぶん、あの事件のあとだった。