しもた屋之噺(154)

ハローウィンの今日、9歳の息子は親友のグリエルモと放課後、変装で知合い宅を訪ねまわる計画らしく、先ほどからグリエルモと隣の部屋で笑い声を上げながら着替えています。

自分が丁度彼くらい頃、座間の米軍キャンプに、ハローウィンの夜連れてゆかれたことがあって、憶えているのは、よく知らないところで不安だったのとアメリカ人の背が高かったこと。米軍キャンプの家屋が日本のと違ってカラフルで広く、「奥さまは魔女」のサマンサの居間にそっくりだったこと。貰ったお菓子は、恐らくヌガーのようなものだったのだろうけれど、全然食べられなかったこと。

何より子供心に不思議だったのは、なぜお菓子をわざわざ夜貰いにでかけるのかという素朴な疑問でした。日本の、それも家の近所に、日本語がどうやら通じない場所があって、あまり周りの日本人と親しく付合っている感じでもないのは、随分小さな頃から何となしに分かっていました。

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 10月某日 自宅にて
日がな一日ペソン作品の譜割り。原曲の「イタリアのハロルド」を時間をかけて読んでから初めてペソンの楽譜を開いたので、読み始めるのがすっかり遅くなってしまった。そのお陰で全体として鳴るべき音は見えているので、透かし文様の向こう側が見えないストレスはない。漆黒の宇宙で、ドッキングしていた宇宙ステーションから宇宙船が音もなく無限の空間へと離れてゆくさまを無意識に思い描きながら、ページをめくる。

シューベルトが平行調を愛用したように、ベルリオーズのナポリ調への偏愛をおもう。ベルリオーズの調性配分が一見据わりが悪いのは、ナポリを支点にして糸の切れかけた、さもなくば糸が絡んだ凧のように、風に煽られ荒々しく動き回るからではないか。そのすぐ裏側にいつも主調を隠匿している姿は、どんなに非日常に身を晒していながらも、どこかで常に覚醒している作曲者の意識を垣間見るようだ。

シューベルトやプロコフィエフのように、平行調を鍵にして転調を繰返すのなら機能和声の配分に変化は来さず、どんなに遠くへ出かけようとも安定感があるけれども、ベルリオーズは敢えて好んで荒波に身を任せようとする。そんな姿をみるとフランス音楽は元来もっと直情的に演奏すべきものなのだろうと頭では理解できても、偏屈なイタリアに20年近く暮らしているせいか、そこに身を預けられない自分が厭だ。そんなことをぼんやり思いながら細かく一つずつ音符を眺めていると、漸く表題の「眺望、細部、許可」の意味が見えてくる。それにしても楽譜の誤りが極端に多い。

 10月某日 自宅にて
川島くん指揮の自作自演が面白く興味深い。楽譜を読んで指揮のジェスチャーが生まれるのではなく、指揮のジェスチャーが楽譜になる。逆説的に指揮の本質とそれが内包する矛盾に触れている。この類は自分ではうまく出来ないけれども、だからこそ素朴に憧れる。似たような憧憬はたとえば三輪さんの音楽にも覚える。

 10月某日 ミラノ行特急車内 
ルガーノでのリハーサルのために二日ほど殆ど寝る時間もなく訂正表をつくる。練習前に演奏者に渡すため、ずっと書き続け、イタリア・スイス国境を越える直前に列車から電子メールでアンサンブルに送る。

今日は5時間ほどリハーサル時間が予定されていたが、そのうち2時間は膨大な打楽器のセットに費やし、30分はペソン自身の朗読のためのマイクリハ。30分は休憩。演奏時間は実質2時間ほど。

彼が朗読したテキストが、彼のローマ滞在記「Cran d'arret du beau temps」なのはすぐ解ったが何やら違和感が残り、その理由がわからなかったが、夜ミラノ行きの列車で思い返すと、原文は仏語で、今日ジェラルドは誰かが訳出した伊語版を読んでいた。

伊語圏スイスはルガーノの国営放送局で、パリのランスタン・ドネに数人のイタリア人、アメリカ人のエキストラを加えての練習はフレンドリーで楽しい。自分の仏語も酷いが、イタリア人のマリオは仏語を解さないので、彼には英語か伊語で説明する。リハーサルを英語で統一すればよいのだろうが、彼以外は全員仏語スピーカーなので、英語の会話は長続きせず、そんな時は隣の席のアメリカ人スティーブが丁寧に英語に直す。国営放送のスタッフとは伊語。録音技師同士は独語で話しているが、こちらは全く解さないので関係ない。

練習は楽しく進むが、殆ど寝ないまま練習に出かけて何時間も経つと、自分が何語で何を話しているのか解らなくなり、遂には頭がショートし、煙を吐いて真っ白になる。

 10月某日 自宅にて
朝、家を出るときミラノは霧雨だったのだが、国境を越えルガーノに着くと、猛烈な瀧のような雨が無情に道路を叩き付けている。坂を駆け下りる雨水は一寸した濁流になっていて、傘は役に立たない。こんな日は当然タクシーも皆無で、丘の上の放送局までバスに乗るが、靴の中は音がするほど水が溜まり、下着の中まですっかり濡れ鼠になるが、放送局脇によい塩梅にミグロスがあって下着と靴下とバナナを購う。

しばしばベルリオーズの原曲の楽譜を参照しながら、アーティキュレーションなどを決める全体練習の後、アルトのルシールと二人で列車時刻直前まで稽古をし、入りのタイミングなどを決め、駅まで坂道を一気に駆け降り列車に飛乗る。

風邪で寒気が酷いので、夜中央駅から行着けの韓国料理屋に寄る。何か精の付く温かいものを頼むと、プルコギの入ったスープが出てきた。肉の出汁がよく出た、ほんのりすき焼きを思い出させる味で美味。

 10月某日 ミラノ行特急車内 
放送局での演奏会の後、マリオの息子と国営放送局の玄関で話込む。彼はミラノ大でドイツ文化を学んでいて、ドイツの文学と語学のどちらに進むか、進路を決める処だという。スイスに生まれ育てば、数ヶ国語を普通に話せるようになるのでしょう、羨ましいと言うと、それはないと即座に否定される。誰もが学校で苦労して学び、母国語の他に何とか1つか2つ言葉が出来るようになるのだから、本人の頑張り次第だと言われる。英独仏伊全てが堪能なのは余程勉強した人だけという。

ロマンシュ語は勉強しないのか。ロマンシュ語が話されるグラウビュンデンはそう遠くないがと尋ねると、「あんな誰も使わない田舎言葉、何の役にも立たない。ロンバルディア方言とスイス独語の合いの子だから、勉強しなくとも意味はわかる」と素気無い。

カタロニアのカタラン語や、コルシカ島のコルシカ語、マルタ島のマルタ語のように、小国にとって固有の自国語は誇りかと思いきや、あまり関係ないようだ。あと数百年経てば、グロバリゼーションで世界の言葉も相当淘汰されているに違いない。

 10月某日 自宅にて
10年ぶりに学校の学生オーケストラに携わる。シューベルトの4番交響曲で1月末までの付合い。オーケストラの8割は昨年、耳の訓練の授業で教えた学生だった。相変らずヴィオラや、オーボエ、ファゴット、ホルンが足りないのは10年前と同じだけれど、今回は半年程前から学生たちからやって欲しいと繰返し頼んできただけあって、出欠も練習開始の時間も随分しっかりとしている。練習が終わって、学生たちが楽しそうにシューベルトを口ずさみながら家路に着くのを見るのは嬉しい。

今日は暫く窓の外からこちらを覗き込んでいた映画音楽科の学生たちが10人ほど、練習を聴かせて欲しいとぞろぞろと部屋に入ってきて、最後まで後ろで座っていた。みな本当に音楽が好きなのだ。

ところで、シューベルトはバッハと同じく、作曲家を特に魅了する存在ではないか。マーラー、ブルックナー、プーランク然り。現代作家で言えば、ディーター・シュネーベルの「シューベルト・ファンタジー」は、高校から大学にかけてレコードが擦切れる程聴いた。当初この曲の原曲のト長調の幻想ソナタの方を未だ知らなかったので、初めて楽譜を買ってピアノで弾いた時の感激たるやなかった。鳥肌が立つような音の連続に時間も忘れて夢中になった。それが切っ掛けで特に晩年のソナタも好きになり、CDをつけっ放しにしていた。前にパリでポゼと話した時も、二人でそんなシューベルトの話ばかりしていた。

構造が極めて簡潔で、必要最小限の素材が互いに相関いや相乗し紡ぎだす新鮮な響きは、美しい旋律に心を惹かれるような表面上の喜びとは根本的に違う、バッハとまるで正反対の意味なのに、等しく理知的に身体が反応する歓喜。シューベルトがいなければ、ブルックナーやマーラーはどんな音楽を書いたのか。その後の音楽史に全く違った展開をもたらしたに違いない。

 10月某日 自宅にて
必死に今週末の本番の譜読みをしているところだが、今日は昼前に家人の留守中、息子の面倒を見て貰った友人の忘れ物を受取りに中央駅まで自転車で走った帰り道、中央駅前のピザーニ通りの自転車専用道路で交通事故に遭う。

俄かには信じ難いが、自転車はひしゃげて動かなくなったものの、身体は一切問題なかった。ただ、保険の調書のために、自転車を自分で保管しておく必要があって、自宅まで持って帰らなければならなかった。昼は公共交通機関が自転車の乗入れを許可していないので、動かない自転車を2時間引きずりながら、歩いて帰り、筋肉痛になった。道行く人にこれは酷いと何度も慰められる。

事故の瞬間、車の運転手と目が合って、子供のときの交通事故を思い出した。

自転車が余りに便利なので、家人や息子にも使わせてあげようかと考えていた矢先のことだったので、それは危険だと誰かが諌めてくれたのだと思っている。

 10月某日 自宅にて
200ページ程の楽譜を、文字通り徹夜で必死に読み込んで何とか練習に出かけた。「身近なことば」というファビオ・チファリエルロ・チャリディの新作は、福島の震災の際の天皇陛下のテレビ会見で始まり、同じテレビ会見で終わる。

その中に挟みこまれる内容は、賃金の安いメキシコに工場を移すという工場従業員たちの告発や、ゴミの収集が途絶えたことに対するナポリ住民の怒りなどの無数のイタリア住民の生々しいヴィデオで、それらの音声をコンピュータで解析され、楽器で同時に再生させる試みがファビオらしいところだ。

冒頭の天皇陛下の言葉は、ハープに変換されていて、最後に改めて天皇陛下の会見が映し出されるところでは、肉声も重ね合わされる。共産党基盤の文化が連綿として続くレッジョ・エミリアらしい企画だけれども、天皇陛下の会見がイタリアの工場の労働者の告発へと引継がれ、90分後に改めて天皇陛下で終わるというのは、一日本人として不思議な気がする。不敬罪というのでもないが、余りに遠い世界の話が同列に並んでいるからだろうか。

本の表紙と内容が合致していないような錯覚に陥るのは、イタリアで皇族にあたるサヴォイア家のスキャンダルなどを無意識に思い出してしまう為かもしれないが、一緒に出演した人気ジャーナリストのガド・レルナーですら、前時代共産党風のセンセーショナルな映像の連続に天皇陛下の会見が品格を添えると大喜びしていたので、外国人にはそう映るものらしい。尤も、作品としてごった煮の情報を、何も整理せずに並列しザッピングしてみせるテレビショーを痛烈に皮肉っていたので、実は大成功しているのかもしれない。

 10月某日 ミラノに戻る車中にて 
数年前までレッジョエミリアでは見かけなかったスリランカ人の雑貨屋にてバナナ購入。レッジョの駅の国鉄職員用食堂でアメリカ牛の巨大ステーキを喰らい10ユーロ。

本番直前のドレスリハーサルの途中からクリックが消えるが、構わずクリックなしで最後まで通すと、作曲者を始めスタッフの誰もクリックがなくなっていたことに気づいていない。本番直前今度はクリックの受信機を大丈夫だからと腰につけられ演奏を始めたところ、クリックが全く届かない。調べるとイヤホンが外れていて初めからやり直し。こんなことで良いのか解らないが、やり直した本番中もあるセクションはヴィデオが丸ごと消えてしまっていた。マルチメディアというのは本番になるとどうも色々気まぐれを起こすものらしい。ということは、本番になると失敗するアコースティックと同じだと妙に納得する。

 10月某日 自宅にて
ヴィジェーヴァノ郊外に住む、引退した老調律師が売りに出していたブリュートナーのグランドピアノをひょんなことから買った。調律師は100年ほど前の骨董品のピアノばかり10台ほど家に置いていて、その中には150年前のプレイエルや最低音がまだ白鍵盤だった頃のべーゼンドルファー、ベヒシュタインなど錚々たる顔ぶれが並んでいた。購入したブリュートナーは、1958年製で、売れっ子ロック歌手になった娘のために買ったものだという。家人は少しくぐもった寂しい響きが気に入ったようで、耳にしたこともない初期のスクリャービンを隣の部屋でそろそろと鳴らしている。

 10月某日 学校にて
接触事故で自転車を失くしたので、新しい自転車が届くまでミラノ市のシェアサイクルを使う。家から学校まで本来であれば自転車で20分ほどの距離のところ、家から10分サヴォナ通りを歩いてシェアサイクルの駐輪場にいき、25分ほどペダルを漕いで、記念墓地向かいのシェアサイクルの駐輪場に自転車を入れ、墓地沿いに10分ほど歩けば学校へ着く。公共機関を乗り継ぐのとほぼ所要時間は同じだが、人いきれのバスや路面電車で通うよりよほど気分がよい。

学校で指揮のレッスンをしていると、上の階から普段指揮クラスでやっているリズム練習が聴こえてきて、一同顔を見合わせて笑う。これは元来指揮クラスのためにエミリオが考えたメトロノームを使う変拍子の練習で、それに音を付けてどの楽器でも出来るようにしたものを、大学の必修授業に使っているので、皆がやるようになった。

ところで、随分前から使用している105教室の窓下に、膝丈ほどの古い石の置物が6つほど並んでいるのだが、これが何の為のものなのか判然としない。脚状で、地に着く部分は獣足に彫られ、中ほどには花模様が施され、天辺は既に大分崩れかけているが、人の顔になっていたことがかすかにわかる。ここ「シモネッタ荘」はスフォルツァ家のルドヴィコ・イル・モーロがミラノを治めていた500年ほど前に建造されたものだが、置物がどの時代のものかはよく解らない。

 10月某日 自宅にて
家人に何のために作曲するのかと尋ねられ、自分自身のための備忘録のようなものと答える。その時に感じたことを書留めておくもの。

正義など、自分が語る資格はないだろうが、戦争はしてはいけない。どんな卑怯な手段を使ってでも、戦争は避けたい。人を殺める恐ろしさもさることながら、その場に自分が身を置いたとき自分自身が狂わないとは断言できない。自分自身でさえ怖い。

ガザで殺害された母親から取り出された女の赤ん坊は、母親と同じシマー(自然)と名付けられ、我々と同じ空気を吸い、何も語らぬままその5日後、同じ名前の母親の隣で土にかえった。人工呼吸器の小さなシマーの写真を眺めつつ、言葉と思いを粉々に裁断してゆきながら、夜半五線紙に向う。

(10月31日ミラノにて)