子どもの頃の愛読書は、長谷川如是閑の「歴史を捻ぢる」だった。もとは1920年代に雑誌「我等」に連載した社会批判で、後に「真実はかく佯る」の一部になった。寓話風の文体と、柳瀬正夢の挿絵が気に入っていた。資本主義も革命も、恐慌も人種差別もこの本で学んだ。
最近近所の図書館でそれを見つけて、父のことを思い出した。父はリベラルな文明批評家・長谷川如是閑と労働農民党の大山郁夫の作った我等社にいた。自分のことをいつか書いてくれと言われたのがずっと気になっていたが、子どものころの記憶しかなく、その後は父親の過去には関心がなかったので、いまは子どもの頃の記憶と、昔の本から拾い集めたことを書きならべることしかできない。
父は1900年10月20日四国の宇和島で生まれた。新島襄の流れの組合派教会の伝道師の三男だった。組合派教会には反権力で直接民主制の気風があり、その家に育った子どもたちはリベラルで自主独立の生活感覚を受け継いだようだ。祖父の自伝には、丸亀で均の母の登世子の悪阻が医者の誤診で手遅れになったとき、1歳だった均が臨終の床に馬乗りになり、アイアイシーシーとはしゃぐので、やめろと引き戻すと、今度は父親に組み付いて倒そうとした、と書いてある。一家は祖父の布教活動で九州から北海道まで転々として、均が10歳の頃は当時の植民地だった平壌にいた。均はそこから熊本の親戚の養子にもらわれて行ったはずだが、数年後には元通り高橋均の名で東京に現れ、東京音楽学校、いまの芸大のヴァイオリン科に入った。
音楽学生だった頃に我等社にも入ったようで、アンリ・バルビュスの社会主義的反戦運動組織クラルテに参加した小牧近江がフランスから持ち帰った楽譜で、トランク劇場の俳優の佐々木孝丸と、後にメイエルホリドに学びメキシコに亡命した演出家の佐野碩が訳詞をした「インターナショナル」を、均が鉛筆を指揮棒にして、創立されたばかりの共産党の党員たちに教えた。1922年のことだ。代々木の市川正一の家で、堺利彦の娘・近藤真柄や高瀬清、青野季吉の顔も見えた、と「トランソニック」6号 (1975) に書いている。
1976年に均が「音楽の友」に連載した「信時潔伝抄」によると、1923年、均は有島武郎の紹介で、叢文閣という有島の出版社から「音楽研究」という雑誌を出した。和声学や形式論、演奏会評などの他に、アロイス・ハーバの4分音記譜法 (1920) やヴェーベルンが書いたシェーンベルク論 (1912)、ブゾーニの覚書 (1909-22) など、ヨーロッパ音楽最先端の情報があった。
有島武郎はその年に人妻と心中し、雑誌が5号でつぶれると、均は小笠原で1年間漁師をしたり、朝鮮半島から当時の満州だった大連まで13年間の放浪生活を送った、と「信時潔伝抄」には書いていたが、その間の1927年には蔵原惟人の作った前衛芸術家同盟の音楽部長になっている。1928年には同盟機関誌「前衛」に「同盟歌」の楽譜が掲載された。作者名はないが、作詞はフランス文学者・桃井京次、作曲は信時潔だった。プロレタリア音楽運動は、ステージで歌がはじまるとすぐ、聴衆席の警官が演奏禁止、全員解散と命令するという、芥川龍之介の「河 童」でも戯画化されている弾圧で、長くは続かなかった。父の本棚には当時出版されたプレハーノフやロシア・アヴァンギャルドの芸術論があって、子どもの頃読んだ記憶がある。幸徳秋水訳の「共産党宣言」もあった。
1932年大山郁夫がアメリカに亡命し、「我等」は1934年2月に無期休刊した。1935年、均は「音楽研究」を共益商社書店から再刊した。季刊で3年間に12号出したが、創刊号はヒンデミット特集で、信時の知人の元ヴァイオリニスト、ベルリンから帰国したばかりの佐藤謙三や信時の弟子でベルリンでヒンデミットに師事した下総皖一、ピアニスト・作曲家で指揮者になったばかりの山田和男(後に一雄)の論文があり、信時潔も住いの国分寺をもじって古久文二の名で、シェーンベルクと比較したヒンデミット論を書いている。その他に長谷川如是閑、社会学者の本多喜代治のエッセイがあり、シェーンベルクの12音技法についてのエルヴィン・シュタインの論文もあった。
その後はロマン・ロラン、シェーンベルクやバルトークの特集号があり、プロレタリア音楽運動にいた盲目の作曲家・守田正義、信時潔の弟子だった作曲家・橋本国彦や長谷川良夫、音響学の颯田琴次、小幡重一、栗原嘉名芽が書いている。東洋美術史研究者の長廣敏雄による20世紀音楽史の連載もあった。最終号は1937年のドイツ音楽特集で、均の巻頭言は、ドイツ啓蒙主義思想のなかの対立物の闘争と普遍性原理の一つの結末がナチスによる音楽の統制とも言えるかもしれないが、スターリニズムの前例はあるものの、いままではありえなかった事態だと書いている。19世紀末のマーラーやシェーンベルクの調性破壊、ドビュッシーの機能和声破壊につづいて、1920年代はバルトーク、ヒンデミットもいるが、ストラヴィンスキーの方向に未来があるようだという見方は、信時と共有していたはずだが、国家の統制は身辺にも迫っていた。軍歌と国民歌謡、葬送行進曲以外に音楽の場はなくなっていた。
神楽坂署だか麹町署の留置場で政治犯が代々受け継いできた「野坂参三の股引」のお世話になった、と聞いたことがある。勾留されたのはいつで、なぜかは聞かなかった。長谷川如是閑と前後して、当時の鎌倉村へ移住したのも、生まれたばかりの悠治の病弱のためと聞いていたが、それだけだったのか。文章はもう書いていなかったし、何をしていたのだろう。鎌倉の浄明寺には、近所に転向作家の林房雄もいたし、如是閑もすこし奥の十二所にいたが、みんな特高に監視されていたのだろう。当時は東京からも遠く、鎌倉は郊外というより国内流刑地のようだった。隣人には、小津安二郎の映画の台本を書いていた野田高梧や民俗学者・大藤時彦、ゆき夫妻がいた。生活がたいへんだったのは、子どもでもわかった。
敗戦後、1946年には芦田均の秘書として憲法普及会で全国を回り、1947年5月3日憲法記念日には長谷川良夫にカンタータ「大いなる朝」、橋本国彦に第2交響曲「平和」、信時潔にも歌曲「われらの日本」を委嘱させたが、普及会はその年12月に解散した。解放気分はたちまち薄れ、冷戦、共産党員追放、朝鮮戦争と続くなかで政治運動には希望がなく、長い空白の後では音楽にはもどれなかった。三菱化成、いまの新日鉄、の黒崎工場に行ったきりの時もあり、香港にも行って独立運動にかかわろうとしたらしいが、結核に感染して帰ってきた。薬代と転地療養で、母がピアノを教えて、貧困家庭はやっとなりたっていた。最後の職は、河出書房の嘱託だった。長生きしたので、ほとんどの友人は先に死んでいた
1978年2月10日夜半、逗子の湘南サナトリウムで転んで、家族を呼んでくれと言ったそうだが、夜が明けてから母が行った時には意識はなく、まもなく呼吸が停まった。次の朝早く実家に行くと、棺の側には母と二人の妹しかいなかった。火葬場では、骨壷に入れる骨はほとんどなかった。その頃のやりかただったのか、骨だけでなく灰まで掃き捨てられていた。