もう30年以上前になるけれど、学生時代、ゼミの追い出しコンパと言えば、決まって松本の老舗の木曽屋という田楽や土壌鍋などを出すお店で催すのが決まりだった。当時の会計がどうなっていたのか覚えていないが、学生はひとり数千円を出して、腹いっぱいに食べて、ビールや日本酒をきちんと飲んでいたような気がする。当時は今と比べると安かったとはいえ、蔵造の木曽屋が安かったとは思えないから、先生たちがいくばくかを負担していたに違いない。当時、いっぱい食べた後、なぜかでてくるシソ飯を汁物といっしょに食べたあと、至誠寮の寮歌である春寂寥を歌って閉めるのが習わしだった。
若い連中のことだから、締めのシソ飯が出てくる頃にはおかずになりそうなものは香の物を含めてなにもなくなるのがいつもだったが、なぜか、それだけでおいしく食べられるシソ飯がずっと頭に残っていた。その後、木曽屋の建物がなくなったのが気になってはいた。
何年かたって、ふいな拍子に木曽屋という名前の田舎田楽を出す店にであった。それは、松本市内を当てもなく、ぶらついていたときだった。木曽屋は建物を建て替えて、営業していたのだった。そのときはうれしくて、手当たり次第に頼んでしまったが、後で会計の時、「食べすぎだ」とお店のおばあちゃんから叱られた。その後、ときどき、シソ飯が食べたくなると、松本の木曽屋を訪れるようになっている。今回も、ふとシソ飯を食べに行ってみた。
ちなみに、その後、聞いた話では、シソ飯のシソは乾燥したもの(ゆかりという名前で売られている)ではなく、塩漬けの生のシソを細かく刻んでご飯に炊き込んだものなのだそうだ。
昔から松本市内には蔵が多い。それは、私が初めて松本に住んだ30数年前もいっしょだ。今回は、食事の前に、ふと蔵造りの商店が並ぶ街を歩いてみた。いや、実は昔、行ったことのある漆器屋にお椀とはしを買いに行った次第である。古い重いガラスの木戸をガラガラと開けると、漆器細工がきれいに置かれている。そういえば、その昔、今使っている箸を買ったときは、生活のための木製品が所狭しと並んでいた。いまは安い輸入品に押されて大変らしい。木曽漆器と松本漆器の並んだ店の中から、手ごろな価格のものを選ぶと、また、ぶらりと街を歩いてみる。
東京、横浜、信州と歩いていて、なんとなく、学生時代を過ごした信州が居心地良いと感じた瞬間だった。そういえば、中華街の海員閣がなくなる前に、もう何回か行っておこうと帰りながらに考えた。