製本かい摘みましては(104)

秋葉原で電気部品、骨董市で時計部品、浅草橋でアクセサリーパーツ、釣り具店で疑似餌素材など、使い方もわからないのに部品や材料を見るのは楽しい。本来の使用目的がわからないものにとっては可笑しなかたちのものが、当たり前顔で整然とたくさん並んでいるその美しさがたまらない。買っても結局は、アクセサリーやカバン、本の表紙を作るときにちょっぴり使う程度だから、ほんとうは何に使うのか想像したり、こんな風に使ったらいいんじゃないかと考えたり、店頭で邪魔者扱いされながら値札を見て悩む時間が実は好きなのだろう。今でも手が出てしまうのは腕時計の部品。時間を知るための腕時計をしなくなって久しいけれど、古い文字盤や使い込まれてとろっと丸みを帯びたケースはそれだけで欲しくなる。ゼンマイやネジやいくつもの小さな円形のパーツとセットになっている場合は、オブジェ作家の知人に送ってしまう。三味線修理店から象牙の端切れを山のようにもらったときも、自分では使いこなせなくてその知人が生かしてくれたのだった。

今年のミラノサローネで評判になったシチズンの凱旋展示を東京・南青山のスパイラルガーデンにみた。「地板」と呼ばれる時計の基盤を大量に使ったメイン展示の〈LIGHT is TIME〉もよかったが、時計の製造過程を記した壁面のコーナーがもっとよかった。通路には小さな円筒形の展示台がいくつかあって、のぞきこむとケースの中にパーツが並んでおり、下から白い灯りで照らされていた。ルーペが添えてある。ひとつの時計を構成する部品がすべてあったり、同形で大きさが異なる部品がグラデーションに並べられていたり、円形のさまざまなパーツのシルエットが雪の結晶のようであったり、照明の具合で影が間延びした宇宙人のように見えたり。時計を構成するいくつものパーツが、学年やクラスを抜きにしてさまざまに円陣を組んで、パーツを作るひとや組み立てるひとたちを慰労するダンスをしているような華やぎにあふれていて気持ちが良かった。

しばらく前に佐藤卓さんが発表した「デザインの解剖」シリーズを思い出す。大量生産品のいくつかを取り上げて、それぞれどんな工夫がなされているのか、デザインの視点から分解して解読したもので、書籍の刊行と展示が行われた。手元の『デザインの解剖②、フジフィルム・写ルンです』(2002 美術出版社)を見ると、製造元の歴史、製品市場、商品のリサイクルシステムから、ネーミング、ロゴタイプ、包装を含めた製品のデザインや素材を小さな単位まで分解して、写真や図にコメントをつけてまとめてある。軽くて安くて記念写真には十分な画質だったから便利に使ったものだ。買っても現像するために渡してしまうから手元には残らないのもスマートでよかった。この「写ルンです」の本体は、たった50ほどの部品でできていた。何度もリユースするために機械で分解しやすく組み立てやすい設計にもなっており、表面を覆う紙には指が触れるところに滑り止めのためのエンボス加工がなされているなど、今読んでいても自分でも分解してみたくなる。しかしもちろんこう書いてある。〈「フジフイルム・写ルンです」をご使用される方へ 「写ルンです」は、ご自分で絶対に分解されないよう、お願い致します。分解すると感電するおそれがあります〉。製造元と著者のあいだの信頼に敬意を表して、衝動を抑える。

本を分解したことは何度もある。最近の文庫本なら表紙をくるっとはげばあとは栞紐が出てくる程度だ。反古紙や手紙が背の補強に使われていて思わず大発見のようなこともない。アーティストの福田尚代さんには、本を素材とした作品がいくつもある。文字に刺繍したり本文紙に針穴をあけたり折り曲げて翼にしたり背表紙を切り取り『書物の骨』を現したりカバーに写る経年を見せたり。それらはどれも作品を作ろうとして生まれたのではなくて、〈ごく私的な衝動に駆られて手を動かすことから生まれ〉、〈唐突に訪れる1作目に続き、おびただしい数の制作を繰り返した後、本人もやっとそれを自分の作品として受け入れるようなところがある〉(小出由紀子 『福田尚代作品集 2001-2013 慈雨百合粒子』より)そうである。中にひとつ、本を素材としたものであると一見してわからないものがある。もわもわとした綿のようなかたまりが、はっきりとした形を与えられずに置いてある。繊維だ。サイズ可変、2003年から2013年にかけて制作、タイトルは『書物の塊:はるかなる島』。前述の作品集に作家のコメントがある。〈読み終えた本の栞紐を切り取りはじめたのは10年以上も前のこと。指でほぐしはじめたのが5年前。でもその頃はまだ、綿状に変化した栞は色ごとの山に分けられていた。2012年、色の山を混ぜはじめた。一本一本の繊維を、見えないくらい細くなるまで解きほぐし、丹念に混ぜ続けていたら、とうとう色が消えて、淡く輝く塊になった(後略)〉。分解しつくすことができるとモノは枠を失うのかと思った。