しもた屋之噺(155)

ミラノに戻る機内です。昨日の夜半、仕事から戻り一足先に家人とミラノに戻った息子が反抗期でタイヘンなのよ、と電話がありました。先日までは父親は怒ってばかりいて遊んでくれない、演奏会なんか出かけたくない、と頭から湯気を立てておりましたが、母親と二人になっても状況はさして変わらないようです。最近、彼は構って欲しいときなど、こちらが巨大なスコアを床に広げて譜読みをしている横にやってきては、わざわざ何やら歌いだすのです。切羽詰まっているので申し訳ないが歌わないでくれないか、と哀願した途端、うちの父親は歌すら歌わせてくれない、酷い父親だと憤怒をむき出しにするさまは愛らしいとも言えますが、仕方がありません。
せめて息子が読みたがっていた「サザエさん」の続きを数冊持たせてやろうと、本番前オペラシティの本屋に立ち寄りましたが在庫がなかったので、替わりに購入した「いじわるばあさん」を2冊、彼のトランクに忍ばせました。そのうち一冊のビニールの外表紙がなかったのは、腹を抱えて厳父が楽屋で読みきってしまったからです。尤も、親に反抗もせずに大人になったらあとが空恐ろしいので、暫くは辛抱しなければいけないでしょう。お手柔らかに願いたいものです。

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 11月某日 ラクイラにて
ローマからラクイラにつくと、肌寒い。薄く研ぎ上げられたアペニン山脈の稜線が、澄んだ青空に切り込むように縁取る。絶望的なほどの美しさは、思わず「砂の女」を思い出す。ラクイラのもうすこし先からは、チェーン規制が始まるところだった。見事な紅葉にみとれながら、しばしシューベルトの転調について考える。ふらりと入った、停留所脇のレストランで昼食。美味。会場まで20分ほど腹ごなしをかねて歩いた。
1年ぶりのラクイラは、多少復興が進んだかにみえるが、やはり立入禁止のビニールテープは、あちらこちらに見受けられる。この場所で、福島の震災のときの天皇の会見をかけ、行き場をなくした民衆の叫びを突きつける演奏会をするのは、実際のところどうだったのだろう。ヴィオラのルチアーノ曰く、満員の会場は、演奏が始まると、かなり当惑していたように見えたという。演奏会が終わり着替えて外にでると、上気した聴衆に囲まれた。見れば、あちらこちらで、今の演奏会について、さかんに意見を言い合っていた。

 11月某日 新潟駅前ホテルにて
成田から三軒茶屋に戻り、30分ほどで簡単に身仕度をして吉原さんのところへうかがう。カシオペアのリハーサルのあと、東京から新潟ゆきの最終列車に乗り、すぐさま眠りこむ。

今朝は新潟のホテルで朝4時に起床、5時に波止場にむかう。朝髭を剃りながら、ちょうど一週間前、ローマのティブルティーナ駅脇のB&Bで、朝蒸気機関車がもうもうと煙をたてて出発するのを、呆気に取られて見ていたのを思い出す。おそらく観光用だったのだろう。
佐渡ゆきのフェリーは揺れると聞いていたが、寝ていたのでわからなかった。日本海を見るのは、子供のころ友達と二人で鉄道旅行をした萩以来で、あちらはもっと幻想的で静的な印象があったが、目の前の海は男性的で荒々しく、厳しい波が沸き立つ。波の華というんですよ、と岸に舞う白い泡を指差して、鼓童の辻さんが説明してくださる。海を見て育つ、と到底一括りにはできない。

午前中は、廃校になった小学校の体育館で妙齢の大田さんの舞台練習を見せていただき、午後は玉三郎さんの監督作品の通し稽古に立ち会わせて頂く。大田さんは、さまざまな古典芸能を紹介するための舞台、玉三郎さんは、全て新曲による、まったく新しい領域への挑戦。

大田さんのほうで、もう長く鼓童が取り上げていなかった、鹿踊りをみる。3メートルほどの竹を二本、肩から担いで、それを床に打ちつけながら踊る、この場では、辻さんが唯一この踊りをご存知だったということで、若手に稽古をつけていらした。他の曲をを練習しているとき、手の空いたメンバーは、担ぐ竹を割いて糸で編みなおし、和紙をはめ込んでいる。鹿踊りと獅子舞はどこかで繋がっていて、と大田さんが丁寧に説明してくださる。でも、地元の方がやられるのには、全く敵いません、神と繋がっているというか。だから本当に感動します。我々は本来営利目的でないものを、舞台に載せて、お金を取ってやっているのですから、勿論違うものになります。
彼女の言葉を聞きながら、我々のやっている音楽が、少しずつ芸能から芸術へと分化してゆく過程を垣間見た気がして、とても貴重な経験をさせていただいた。

玉三郎さんの練習風景も素晴らしかった。本当に耳がよい人というのは、ああいう人のことをいうのだろう。彼が叩くと、練習したこともなくても、とてもよい太鼓の音が出るのだという。欲しい音が明確にあって、それを的確に言葉にしてゆく。最初は、全く自分には理解できないような彼らだけの共通言語で通じ合っているのかと心配していたら、とんだ取り越し苦労だった。あんなに面白い練習風景を見られるとは思いもよらなかった。

オーケストラやアンサンブルに馴れた人間にとって、あのように共同生活をして、隔絶された環境のなかで、練習に励む風景は、話には聞いていても、やはり驚きに満ちていた。こうしなければいけないとは言わないが、この状況でしかできないことをしなければいけないとは思った。

 11月某日 三軒茶屋にて
三軒茶屋のマンションの管理人さんに呼び止められた。10月にここに住んでいた同じ世代の一人暮らしの女性が病死されたという。10月初めに同僚の女性がやってきて、3日会社に出てこないのでおかしい、と一緒にインターホンを鳴らしたが何も応答はなかった。管理会社に連絡しても合鍵はなく、勝手に鍵を壊して開けることは出来ないといわれたそうだ。警官二人がやってきたが、やはりインターホンを鳴らしただけで、プライバシー保護により中には入れなかったし、女性の上司もやってきたが中には入れなかった。漸く秋田からご両親がみえて鍵を壊して中に入ると、きつい臭いが鼻をついたという。女性は御手洗で亡くなっていて、最初に同僚が訪ねてきてから既に20日以上経っていた。

隣の部屋の奥さんはずっと臭いがおかしいと言っていたそうだし、管理人さんは池を這いまわる虫が、どこからわいてくるのか首を傾げつつ片付けていた。それでも誰もあのドアを開くことができなかった。これもやはり孤独死と呼ばれてお仕舞いだとすれば、余りに切ない。プライバシー保護など、元来は日本人よりよほど個人主義が強い西欧の社会に生まれた制度だが、本来の日本人の社会体系とは相容れない部分もあるのではないか。やり切れない思いで、手をあわせる。

 11月某日  三軒茶屋自宅
初台にリハーサルにでかけると、佐渡さんがいらしていておどろく。フルート吹きの義妹が随分お世話になった方だけれど、実際にお目にかかるのは初めてだった。5人のソロがあるでしょう。これをベルリンでやったときは、自分の年齢やホテルの番号やら、いつも5の数字が自分につきまわっていてね、ととても気さくな方で安心する。

初台のリハーサルを終えて、吉祥寺へ走る。初台駅に着くと、笹塚の人身事故で電車が止まっていたので、東中野までタクシーに乗った。
ルネッサンス・フルートの菊池さんとサグバッドの村田さんのリハーサルをききながら、現代楽器とは根本的に違う表現で、何かを伝えたいと思う。伝えるのではなく、ある瞬間に聴き手に何かを気づいてほしいのかもしれない。同じものをみていて、同じものを吹いているのに、気がつくと全く違う風景を見ていることに。二人の間には、ただ渇いた風が吹きぬけるのみ。
ルネッサンスフルートの音調に、パレスチナの笛の音を聴き、サグバッドにパレスチナの国歌のファンファーレを聴く。それらは演奏者の意志によってバンショワの原曲を侵蝕し、イスラエル国歌に絡みつきながら、互いに頑なに主張を繰り返し、時に耳を傾けあう。互いにどこかで出会うことを願い、信じながらそれぞれの道を進み続ける。

 11月某日 三軒茶屋自宅
菅原さんが貸してくださった武満さんのドキュメンタリーを見ながら、夜半、食卓で三善先生の譜面を開く。
「最初のチャイムで武満さんが降りてきて、最後のチャイムで武満さんが昇ってゆくね」。
菅原さんの言葉が心に響きながら、地下の蕎麦やで鴨南蛮を喰らっていると、功子先生と藤田正典さんの奥さまが入っていらした。藤田さんも真木さんと一緒に、祖父が夏になると湯河原の浜に出していた海の家に遊びにきていた。真木さんは藤田さんも連れて行ってしまった。
カシオペアは、あれだけ複雑なのにとても理路整然と書かれていて、和音はとても明快だ。本番の吉原さんは確かにに子供のころから舞台上で見ていたそのままの躍動的な吉原さんで、自分が隣で演奏しているのが何だか不思議だった。

 11月某日  三軒茶屋自宅
先日タクシーに乗ると、運転手が突然、「政治の話はあまり良くないのですけれども」と前置から始めた政権批判が止まらない。首相をぶん殴れるものなら、ぶん殴りたいと物騒なことをいい、先月も官邸の周りのデモ行進に参加してきたと話す。
別の機会に別の運転手とこの話をすると、同じく憤りを堪え切れない様子で、「この業界の人間はみな怒っていますよ」と息巻かれてしまう。「儲かっているのはほんの一部でしかありませんよ」。
こんな状況でありながら、本当に国民総生産のマイナス成長が予測出来ないというのも、素人には少し不思議な気がした。次回の選挙は、日本での期日前投票にも間に合わないし、在外投票手続きにも間に合わないので、投票はむつかしそうで残念でならない。投票率が上がることを切に希望するばかり。

村田さんと菊池さんの二重奏を聴いて、中村さんが、あの曲には土の匂いがしますね、と言って下さったのが嬉しい。演奏者はお二人とも最後、主題がかみ合う瞬間に鳥肌が立ったそうだが、演奏中に鳥肌が立つというのは、少しわかる気がする。武満さんの「フローム・ミー」を演奏しながら、自分でも何度かざわっとする鳥肌が立った。机仕事ばかりしていて、体をあまりに動かしていないのでストレスが溜まり、思い余って東京でも自転車を購入する。

 11月某日  三軒茶屋自宅
相変わらず寝る時間はまともに取れないのだけれど、ぎりぎりまで三善先生の楽譜を勉強。気持ちの良い秋晴れにつられて、三軒茶屋から大泉学園まで自転車でレッスンに出かける。どこかで昼食をとるつもりでいたが、最後まで机に齧りついていたので必死に漕いでも5分ほど遅れてしまった。新青梅街道を曲がるところで道に迷ったりしたのが災いした。朝食と昼食を食べ損ねたが、その代わり夕刻30分休憩でかけこんだレバニラ定食は、涙がでるほど美味だった。

今回は殆ど知った顔が多くて、嬉しい。少しずつでも何かが積み重ねられてゆけば、残ってゆくものもあるだろうし、万が一にもそれらは新しい芽をふいてゆくかも知れない。木下さんや伊藤さんは、先に東京で会ってから秋吉台に来てくださったので状況は知っていたわけだけれど、秋吉台で初めてお会いした竹藤さんなど、今回はどう思ったろう。秋吉台では実践的な話しかしなかったので勝手が違って戸惑ったかもしれない。伊藤さんも橋本くんも、前回に比べてずっと良い意味で振らなくなって、演奏者に任せてくれるようになったし、その分身体もずいぶん柔らかくなった。みんな素直で感心する。自分はあんな風に学べなかった。大石くんが持ってきたコレルリからも、たくさんの指揮のヒントが得られたし、初めて指揮をした矢野くんは思いの外身体がほぐれたまま振れたので、とても深くうつくしい音がした。米沢さんは暗譜で読み込んで来てくださった。

 11月某日  三軒茶屋自宅
朝まで譜面を読んで、約束の時間10時ほんの少し前に自転車に飛び乗り、蛇崩の沢井さんのお宅に伺う。玄関に置いてあった演奏会のプログラムに、何か見覚えがあると思っていたが、深くは気に留めなかった。ここに三善先生が文章を書いて下さったのよ、と後で沢井さんがそれを持っていらした時に、その昔子どものころに出かけた沢井さんの演奏会だったことがわかった。1曲ずつは覚えていないが、確かに親に連れられてでかけた演奏会だった。

子どもの頃、何も意味も分からず親に連れられて過ごした時間が、今となっては自分の深い部分に残っているのを実感していて、今更ながら両親に感謝している。この処、息子はどうも言うことを聞かないのだけれど、それでもあちこちに連れ歩くのは、本当に大切なことよ、と沢井さんは励まして下さる。

もう少しすれば、息子と一緒に出掛けることも出来なくなるに違いない。せいぜい後5、6年しか今と同じようには過ごせないのだから、多少煙たがられても、見せたいもの、連れて行きたいもの、食べさせておきたいもの、しておきたいことなど、押し付けがましくとも、しておかなければ後で後悔する。などと軽々し
く口にすると、家族からは自己中心的だと怒られる。

今日も、沼尻さんが2月に桐朋オケと演奏される三善作品プログラムの譜読みを手伝いに桐朋まででかける。同じ三善門下として、先生や大先輩の多少でも役に立てるのなら本当に嬉しい。
三軒茶屋から仙川は、自転車なら落ち着いて漕いでも30分かからないので、6時半からの練習のために、5時55分くらいまで机に齧りついて譜読みをし、楽譜をリュックにつめてでかける。何しろ3日ほど前まで曲名も知らず、練習があることすらも分からないまま過ごしていたので、急遽実家にあった楽譜を届けてもらって、1日1曲まるで三善先生から宿題を貰った気分で必死に譜読みをして、夜のリハーサルを何とかやり過ごす。

三善先生を直接しらない学生オーケストラのために、三善先生の楽譜を勉強するのは、想像以上に大変な作業だ。プロのオーケストラなら、自分に限られた時間しかなければ、とにかくどう振るかだけを考えて、何とか通せるようにして出掛けても、オーケストラは弾いてくれるに違いないが、真っさらな学生さんたちに対しては、それをしてはいけないと自分を戒める。先生の楽譜を一度でもそんな風に扱ったら、一生自分が悔やむだろう。学生さんたちも最初に三善作品とそういうルーティンで出会ってしまったら、ずっと残ってしまう気がする。しかし我ながら譜読みが遅いことに、改めて驚愕している。

 11月某日 三軒茶屋にて
朝起きて顔を洗って机にむかう。少し目処がついたら朝食を食べようと思っていて、すぐに正午になり、キリの良いところで昼食を食べるつもりでいると、気がつけばもう夕刻で時間切れになり、自転車を飛ばして桐朋へ出かける。
こんなにわかっていないのに曲を教えるのは甚だ申し訳ない。ヴァイオリン協奏曲で自分で呆れるほど変拍子を振り間違えるのは、勉強不足と疲労もあったのだろう。これを1日で読むのは自分にはむつかしい、楽譜もあまりに小さくて見えないしと自らを慰めながら、世田谷通りの上海家庭料理屋で夜の10時半、今日初めての食事で一人ささやかな幸せを噛みしめる。調子にのって紹興酒でも呷りたい気分だったが、ひっくり返りそうなので止した。

 11月某日 NEX車内にて
朝、荷造りをしながら、悠治さんの「あけがたにくる人よ」、と「狂句逆転」を2度ずつ聴く。
1度目は楽譜を見ずに、2度目は楽譜を読みながら。「狂句」の楽譜は前に見せていただいたことがあって、ビーバーなど参考にしていて、と話して下さったのが印象に残っている。何しろビーバーはヴァイオリンを弾いていたころ熱を上げていた作曲家で、ロザリオのソナタの各曲の最初に調弦が書いてあるのに痺れた。タルティーニやヴィヴァルディやロカテルリなんかより、ずっと格好いいと信じ込んでいた。こういう素朴な理由は子供らしくていい。

閑話休題。今朝は「狂句逆転」を聴いて、最初に「7つのバラがやぶに咲く」を聴いたときの衝撃を思い出していた。あの頃はまだ小学生でヴァイオリンを弾いていて、クレーメルとカントロフに憧れていた。ちょっとエキセントリックな演奏家が好みだった。クレーメルがアファナシエフと開いた東京の演奏会にでかけて、あの曲を知った。そのあと程なくしてラジオをエアチェックするなりして録音を繰り返し聴くようになった気がする。まだCDは出ていなかった。ショットから楽譜が出版されるとすぐに買った。

あのときと同じ響きがした。荒井さんの音で、童心に帰ったようだった。同じころ、ヴァイオリン独奏曲の「ローザス」もずいぶん聴いたし、弾く真似事もどれだけやったことか。あの録音はズーコフスキーだったと思うが、違うかもしれない。微分音が並び、リズムが複雑なローザスと、旋律が浮きあがる「7つのバラ」、どことなくそれらが全て溶け込んだ響きの「狂句」。
自分は子どもの頃、一体何を聴いていたのだろう。或いは何も聴いていなかったのかもしれない。今となっては、荒井さんとクレーメルとズーコフスキーの音が、記憶の襞に絡めとられるのを、ぼんやり見つめるばかりだ。

(11月30日 ローマ行機上にて)