島便り(8)

小豆島の我が家の最寄り港は草壁港です。島のほぼ真ん中で一番静かな港です。この港と高松港を結ぶフェリー会社が内海フェリー。そこの社長にお会いしたとき「僕の家の近くに小磯良平さんがアトリエを持っていたんですよ」というお話がポロっと出た。心の中でナヌと叫んだが、それは口にださず、日々は過ぎ去り、しかし小磯良平がずっとひっかかったまま数ヶ月、それが思わぬ事から糸口のはしっこがスルスルと現れてきたのです。またか! 

おそらくこういうことです。1930年代から香川出身の猪熊弦一郎(1902―93)が始まりの気がするが、おおくの画家、画学生が小豆島に滞在、海岸やオリーブの樹や海と夕日を描いていた。猪熊弦一郎と友人であった小磯良平もそのひとりであった。糸口の資料によるとその数40数名。主に東京美術学校(現東京芸術大学)の出身画家、学生のほかにも香川や関西の画家たちの名が見える。画家のなかには小磯良平、古谷新をはじめ島にアトリエを建てた人まで数人いる。また、点数は定かではないが、彼らの残した絵まで島に残っているというのだ。数年前に人の目に触れたらしい。

それはこんな事情からであった。
彼らが絵を書くために投宿した宿は島に一軒で「森口屋」という。たしかに今その場所へ行ってみると、湾が一目で見渡せ、朝日や夕日を描くには絶好のロケーション。半世紀前では尚更であったろうと想像する。で、おそらく長逗留の宿賃のかわりに色紙に描いて置いていったもの、画帳に何人かで回し描きしたもの、長年にわたる宿屋店主たちへの額縁入りの寄贈画と、様相もさまざま。ところが2年ほど前にその旅館が倒産、管財人が入り、絵の処分になったとき、町長が残しておいたほうがいいのではないかと決断、ダンボール箱のまま落札したということであった。一度資料展で展示したが以来町の資材置き場にしまったままということだった。

その話を町長から聞いて思わずエライ!と手をたたいてしまいました。こうなったら是非ともその絵を全部見せていただきたい、どうします、と半ば強引につめより3日後に甲賀さんも連れて町長ほかみなさんと絵に会いにいきました。ウーン、これを島の財産と言わないで何を財産というのか。2年後の瀬戸内芸術祭までにきちんと絵と作者のあとづけをして、額装を直したりないものは額装して、これこそみせねばならないものではないでしょうかね。と心の中で思ったが口にはださなかった。だがその隣の部屋のほこりだらけになった民具と古文書(民芸とは言わない)をみたときに、思わず絵とこの生活道具全てをキチンと展示できるようにすべきだ、と言ってしまった。言ったからにはやりますよ。今度の山はメッポー高いけど、きっと島の若者が手伝ってくれる。

帰り道、既に人手に渡ったという小磯良平のアトリエがそのまま残っていることを知って、町役場の方たちにご案内いただいた。小さめの住みやすそうな木造2階建てのそれは、当時は海まで見渡せたに違いない小高いオリーブ畑の端に建っていた。