しもた屋之噺(156)

年末を日本で過ごすのは久しぶりだと、昨晩三軒茶屋の駅前を歩いて気がつきました。正月飾りの出店を目にしたのは何年ぶりでしょうか。とても懐かしく童心にかえって心を躍らせました。改めて考えてみれば、正月飾りの売店に子供が興奮する理由は特にないのかもしれませんが、正月はやはり特別な行事だったのでしょう。普段から日本にいれば、今もきっと同じように身近に感じられるに違いなく、すこし残念な気がしました。

ともかく、飾り海老やしめ縄、簡単な松飾りすら子供には立派で豪勢に思えましたし、正月前には、近所で集り餅つきをしたり、週末には日がな一日庭の落ち葉かきをし、それを貰ってきた一斗缶やドラム缶で燃やして、夕方には残り火と灰で焼き芋を作るのがとても贅沢だと思っていましたし、何より美味でした。落ち葉かきの記憶というと、焼き芋用に縁側に用意されたサツマイモのざるに繋がるところを見ると、子供ながら労働対価としての焼き芋に特に興味があったと認めざるを得ません。ともかくそんな風に大人が年始を迎えるにあたり、いそいそと準備をするのが新鮮だったのでしょう。息子にこの時節感を植えつけてやれぬことに後ろめたさを覚えながら、「門松は冥土の旅の」と独りごちつつ軒をつらねる出店を通り過ぎました。

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 12月某日 ミラノ自宅
先日キリスト教大の授業に出かける直前、家人よりこのメッセージを読んで欲しいと電話がかかった。見れば息子のクラスの仲良し、ディエゴの母親ダニエラの訃報ではないか。ダニエラは、つい一週間前に帝王切開で元気な男の子、ガブリエレを生んだばかりだ。にわかには信じ難く、思わずシモーナに電話をすると、彼女は経緯をよく知っていた。先週末、一度退院したダニエラは自宅で猛烈な頭痛を訴え、そのまま脳溢血で倒れ、搬送先の病院で亡くなっていた。

残されたのは、報道カメラマンの夫エルメスと、ディエゴと彼の2歳上のダニエレ、そして生まれたばかりのガブリエレ。エルメスは、ルワンダの虐殺や、有罪となり老人ホームで社会奉仕活動に従事するベルルスコーニのルポルタージュを手がけているが、当座は仕事を休んで子育てに専念せざるを得ないといっていた。イタリアでは、子供が一人での登下校は法律で禁止されていて、親なり誰か学校に届けてある代理人が登下校を付添わなければならない。だから、毎日エルメスにも学校の前で会う。

11月には一級上のフィリピン人のレオナルドの母親も同じような症状で亡くなっていて、彼らはあろうことか母子家庭で、その上レオナルドは実の父親の顔すら知らず、ミラノで生まれたので、フィリピン語も話せず、親戚もわからないという、文字通りの天涯孤独になってしまった。今は一時的に友人宅に身を寄せ、そこから学校に通っているが、例えば養子縁組も一朝一夕にできるものではないので、彼の今後はわからない。

学校中がこの二つの悲劇に衝撃を受け、多くの母親や子供たちが精神的な不安を口にするようになり、精神科医のカウンセリングも始まり、周りが彼らをどうサポートするか、教師や父兄が夜集ってミーティングも始まった。こんな時でもディエゴは、いつもニコニコと微笑を絶やさない。葬式でもそうだった。その姿に周りの大人たちは、心が裂けそうになっている。担任のヴァレンティーナも夜のミーティングで精神科医を前に涙を流しながら話した。

「辛かったら、無理をして笑うのではなく一緒に泣いていい、先生はそう仰いますが、それでは20人以上の子供を預かる私はどうしたらよいのでしょう。ディエゴは学校は友達がいるから楽しい、といいます。微笑みも絶やさない。でも、これからもうすぐクリスマスです。サンタクロースに何を頼むのときいたら、ディエゴはゲーム、って言うんです。本当に一番頼みたいものは口に出さないのです。よく判っているんです。クリスマスなんて本当に辛すぎます。わたしはどうしたらいいんですか」

周りの父兄も皆さめざめと泣いていた。精神科医も言葉を失い黙ってしまった。そして自転車の鍵を失くして、真夜中遅く担いで家まで帰った。

 12月某日 ミラノ自宅
杜甫のテキストを、無心で書き写す。初め五回くらいはただ意味を追うだけだが、それでも続けると突然風景が脳裏に鮮やかにへばりつくようになり、その後は文字と文字の隙間の空気の匂いが鼻をくすぐるようになる。

演奏者がそれぞれの音楽を歌いつくして欲しいとおもい、スコアなしアンサンブルの楽譜を書く。

それぞれが本当に独立した音組織を発展させるために、使う音組織を規定し、和音の響きから音符の緩い規定を引き出すのではなく、自由な対位法に近い発想で横に音をならべてゆく。本来の対位法と根本的に違うことは、横に並べるにあたり、別の声部に対してどの反応をするかではなく、横に並べる音程のみに規定を絞り込む。これは例えばブロードウィン写本の一部の作品や、或る時期のドナトーニの楽譜にも影響を受けた。正確に言えば、彼らのプロセスを逆に転写し、全く別の空間に各楽器を放り込んだ塩梅に近い。

ある一定の音組織の規定を予めつくり、その中を自由にそれぞれの演奏者が動き回ることは、誰でも普通に使ってきた手段だが、割った竹の節のように区切りごとに構造は分断され、どうしてもこの節目が際立ち収斂してしまい、各人が突き抜けた独立性を保つのをむつかしくする。

自分が指揮をしていなかったら、全く違うところを目指したに違いない。普段自分が演奏者に対し、全員同じアーティキュレーションを要求し、同じイントネーションや、同じリズムを要求し、縦を揃えることの功罪を、よく理解しているはずだと信じている。各人の音楽性を引き出す上において、個を殺すことの必要性をよく理解しているからだ。無論、それは悪いことばかりではなく、最終的に集団として個とは全く別次元の大きな表現の実現が可能になる。

ただ、今自分として興味をもっているのは、演奏者がそれぞれ自分で自らの表現するフレージングをつくり、縦を合わせる集中力とは別のところで、互いの音楽の交わりを聴きあいながら紡ぐことによって、それぞれの奏者のよさを引き出せす可能性。

 12月某日 ミラノ自宅
総選挙の投票率最低とのニュースに続き、香港の民主選挙を巡るデモについてラジオで話している。今回はどこからも投票ができなかった。東京での期日前投票には公示が遅すぎて、ミラノでの在外投票の手続きには、期間が短すぎた。香港のデモに参加している人たちは、香港の全人口のどの程度の割合の、どんな立場の人たちかと考えを巡らせる。
民主選挙が出来なくなると知れば、日本人も選挙に敏感になるのだろうか。それともその頃にはもっと感覚が麻痺していて、殆ど誰も興味を持たなくなっているのだろうか。尤も、支持政党の比率が相似を成すはずであれば、投票率がたとえ上がっても、特に選挙結果の大勢には影響はないはずで、その前提に則って現在粛々とマツリゴトが執り行われている。

指揮のレッスンをしていて、必ず話すことがある。もちろん、自分の経験上実感していることに他ならない。

君が伝えたいことが伝えられないストレスを感じるのは当然だということ。もし君が伝えたいことがたくさんあって、指揮棒をもつ右手がそれを上手に演奏者に伝えられないからといって、(殆どの場合は無意識のうちにだが)何でも闇雲に、顔の表情や、目配せや、足踏みや、身体をゆらしてみたり、歌ってみたりして、何とか意図を伝えようとしてしまうのは間違っている。辛くても君が伝えたい事は、全て右手に収斂するような回路をつくるべきであって、それは繰返し訓練すれば誰にでも出来るようになる。
音楽におけるコミュニケーションは、実はとても込み入っている。他者にその込み入ったインフォメーションを右手から伝えるためには、コミュニケーションのプロセスが、間接的であることを受け入れる必要がある。そのためには、感情や論理の言語化の訓練がまず必要であって、具体的に伝えたいことを他者に理解できる言語に変換する煩瑣な手続きを、面倒がらずに真摯に噛み砕いて説明する鍛錬が求められる。

文章の終わりに(汗)とか(涙)とかと書くことで、細やかな感情表現を放擲してしまうとか、果ては文章の替わりに、大げさな顔のイラストを送ることで、大体の感情表現のコミュニケーションが瞬間的に実現できてしまう、と過信するのは実はとても危険なことではないか。
少なくとも指揮という煩瑣な作業は、それら一つ一つの情報を噛み砕いて頭のなかで言語化し、それを右手に情報をおくって、指揮という全く別の言語体系、未知の外国語を通して、君の意思を伝えることに他ならない。それが面倒だと思っても、他者に君の音楽を伝えるためには、それだけの多くのプロセスを君がまず受け入れなければならない。すぐに伝わらないからと言って、ひねてみたり、こんな感じで、とかインスタントな表現で済ますのではなく、他者にわかるように、わかる手段で、わかるほど噛み砕いて伝える厄介を、それだけの信念と執念と丹念をもって、頑張って培ってほしいとおもう。

 12月某日 ミラノ自宅
三浦さんより、ミュージック・フローム・ジャパンの新曲のための解説文をたのまれる。

・・・杜甫二首

「春望」は、757年、杜甫46歳のときに、安禄山の反乱によって荒廃しきった長安の姿をうらめしくうたったもの。
「対雪」は、その前年、756年の冬、安禄山軍によって長安に軟禁中の杜甫が、自らを幽閉されて「この世の何たることよ、咄咄怪事」と空に書き続けた晋の殷浩になぞらえて、戦乱の世の愁いをつづったもの。

昨年2014年わたしたちは、クリミアでつい昨日まで同じ国民だったもの同志がいがみ合うのを目の当たりにし、パレスチナとイスラエルの果てしなき戦いに言葉をうしない、イラク、シリア、アフガニスタンなどの市民戦争で、インターネットで私刑を中継するおぞましいテロリストの雄叫びに誰もが目をうたがった。
海のもくずと消えゆく高校生たちを、なす術もなくテレビでながめ、パキスタンで132人の罪なき小学生が銃弾に斃れたニュースにふるえた。ナイジェリアでは、276人もの女子学生が誘拐され、市民は虐殺された。
今感じている思いは、どうしても今、どこかに刻み込んでおかなければ、記憶が薄らぎそうで怖い。当事者ではなく、傍観者でしかいられない無常観を湛える杜甫のテキストは、自分の心と符合する。二首を杜甫がよんだ長安の都、現在の陝西省民謡「泪蛋蛋」の旋律に基づき、ニ首つづいて演奏される・・・

  ......

陝西省、特に陝北の音楽に惹かれ、くりかえし民謡をきく。恋の焦がれは切々と、悲しみは泣きじゃくりながら、四度を重ねた似たような節回しにのせて歌う。時たま挿入されるはっとする変化音の艶かしさに、インドや遥か西方文化の片鱗を見る。
女たちは嗩吶そっくりの声色で、喉をつめ粘りと張りをくわえてうたう。男たちが裏声を巧みに操りながら、驚くほど広音域を縦横無尽にうたうのは、遥か彼方まで声を届けたかったのかもしれない。ちょうど木曽節がもう一つ二つ上の声のポジションまで上り詰めたかのように見える。
悩んだ末に、杜甫二首のテキストに「泪蛋蛋」を選んだが、当初は有名な「赶牲灵」つまり「趕牲霊」を使うつもりだった。自分の作曲が終わってから、インターネットで採譜された「赶牲灵」の数字譜を読むと、採譜者により、リズムや節回しが随分違う。こんな数字譜を見つける術を知らなかったので、「泪蛋蛋」も「赶牲灵」も自分で採譜してみたが、さわりの音の趣味など、それぞれ随分違うようにおもう。

こうして食卓で陝北民歌を聴いている間、階下では家人はポゼをさらい、その隣の部屋で息子が「くるみ割り人形」の合唱の音取りをしている。

 12月某日 三軒茶屋自宅
成田に向う機中、初めて三善先生の「波つみ」の楽譜を開く。これからほんの数日のうちに読めるようになるのだろうか。まだ清書が終わっていないというのに。絶望と戦いながら無心でひたすら読む。先生の高い筆圧の音符を、几帳面に縦が揃った音符や数字をとにかく読みながら、頭のどこかで「海」の「波の遊戯」のスコアのページを同時に捲っている自分に気づく。表面上の音楽は全く違うのだが、どこかで薄く記憶を呼び覚ます声がきこえた気がした。

「波つみ」の楽譜を読みながら、先日ミラノの映像音楽作曲科の学生たちに、先生の赤毛のアンの主題歌を聴かせたときの喜びようを思い出していた。その日は珍しく欠席が多く、何時ものようにシャランを歌わせようとしたら心細そうにしているので、「実はこのシャランは、ぼくの恩師がフランス留学中和声を習った大教授なんだ」と話してみた。「恩師もこのシャランにはずいぶん影響を受けたからね。いつも歌っているから、君たちもシャランの和音の癖はわかるだろう。たとえば君たちならこれは知っているんじゃないか」

そう言ってインターネットから「赤毛のアン」のオープニングを探してかけるやると、学生たちは興奮して何度も何度も繰返し聴きたがり、「ああこのサワリの和音が似ている」とか、「この部分のバスがこんなに凝っている」とか口々に話し始めて止まらない。そうして改めて歌ったシャランは、最初とは打って変って活き活きとした喜びに満ちた声だったから、シャランで引っ張り出された三善先生は、ちょっと苦笑いされているかもしれない。

尤も彼らの「赤毛のアン」の最初の反応は、「何てゴージャスなオーケストレーション!」という感激の声で、何しろイタリア語版の主題歌は単にシンセサイザー伴奏の、三善先生のものとは比較にならないほどシンプルなものだった。「波つみ」の楽譜を開きながら、「何てゴージャスなオーケストレーション」というため息まじりの学生たちの声が甦ってきて、不謹慎とは知りつつ、くすりと笑ってしまった。

 12月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんのところで「タワヤメ」をきく。かそけく響く五絃琴の調べ。流罪に処された夫の衣を、一針ずつ縫いこみながら、かさかさと乾いた音を立てる衣擦れの音。部屋をわたる風。ひたひたと思いを縫いこむ新妻の姿が、少しゆらめいて見えるのは、もえたつかげろうのように、静かに想いが立ち昇るからか。

(12月31日伊豆熱川にて)