青空の大人たち(6)

何を隠そう自分は夢託され体質である。こんなに夢を託されて(あるいはこんなやつに夢を託して)いいものかと謙遜ではなく真面目に思ったりするものの、事実としては託される側の子どもたちの総数が減っているので託され率が上がるのは当然とも思えるし、また年長者の話を聴く青年もまた少なくなっているのだから聴きたがりがことさらに託されそうな夢を引き寄せているという側面もあるだろう。

事情の分からない方には本当に分からない話で恐縮だが夢を託すといっても託され方も様々ある。もちろん面と向かってというのがもっとも素朴であり、年長の知り合いは恩師、または先駆者といった人物からうやうやしく夢を拝領するのがいちばん多い状況であるだろう。ふたりで語り合う(あるいはこちらは話を拝聴する)うちに、ふいに「実は」という形で持ち出され、そのあとそれとなく「もう自分にはできないが誰かにやってほしいものだ」と口に出され、むろん〈誰か〉とは目の前にいる人物が想定されているわけだが、ここで答え方にも色々あり、「私がやってみせますよ」と見得を切ってもいいし、「大丈夫ですよ、安心してください」とそこはかとない同意をちらりと見せてもよく、または聴くという態度のみが継承に当たることさえある。

あるいは「きみは○○になれる/ができる」型の託され方もある。つまり激励してみせるふりのなかに、自分のできなかったことが投影されているということだ。「こんなことができるのでないか」という言い方そのもののなかにどこかで「自分はできなかったが」という回顧もあり、そうした想像のなかにこそ個人の夢があるという案配だ。これもまた本人と対面して言われることもあるが、ある程度ひとに見える形で活動している場合まったく知らない人物から本人のあずかり知らないところで託されていることもあったりするがそのあたりは自分の名前で検索してみるとわかる。

夢は探すよりも託される方が楽しい。ほんの少ししか生きていない少年や青年の頭で考えつく夢、あるいは狭い視野のなかに映る夢というのは、どうやらやはりたかが知れていたようなのだが、かたや人生の先輩の持っていた夢というのは、自分の何倍もの時間をかけて追いかけてきたにもかかわらずついに達し得なかったものであって実に解きがたく解き甲斐もある難問である。

そもそもはおそらく祖父の「学をつける」というもので、それについては自分が大学に通った時点である程度達していたらしく、それなりに満足させたようだ。「ものを書くひとになる」という夢も自分が持ったものではなかったがとりあえず現在なれてはいるらしい。「絵本を手がける」にしてもそうだがその相手が生きている場合は勝手に他人が叶えてしまうのであるからもはや人の夢を横取りして食べて自分のものにしてしまう貘のようだ。

そんな貘にもやはり消化しきれないものはもちろんあるのであって、ひとつ「きみは直木賞が獲れる」という発言にはもしや職業をお間違えではないですかわたくしは翻訳をする人ですよと言いたくもなりかけたがむろんそういうわけでもなく今後オリジナル作品を書いてそうなるという予言なのだから無茶ぶりにもほどがあるし今から田中小実昌を目指せというのも果たして。

富田さんから言われた「打倒ベルヌ条約」もいったい何から手を付けたものやらわからず、それなら政治家になるべきか思想家になれというのかとあれこれ考えてみるものの詮無く、まずはいくばくかの発言力を手に入れるところから始まるのだろうと思いはするものの、国際条約の打破というからにはそれこそいわゆる〈グローバル人材〉なるものになるしかないのだろう。

とはいえ身には余ってもまずもって託した当の本人に解けなかったものであるから、こちらは当たって砕けるのが当たり前で気は楽に構えてもよいのだろう。あろうことか本人は実に気安くほいほいと託されればまずもってありがたく受け取るのだから始末が悪い。

しかしながらそれでも断ることだってあるわけで、むろんお世辞の類を真に受けることはないし、具体性に欠けるひどく曖昧な夢も困る。何よりも怨念に満ちたものはやはり拒む。漠としすぎた夢はもはや呪いと同等で、妄執を人に押しつける手合いもお呼びではない。

事実、面と向かってご辞退申し上げたこともあり、あるときには「世界革命」などまっぴらご免であると言った。「革命してほしい」という依頼はなるほどご立派だがその裏は青年を自分の駒のようにしか思っていないと相手の底も知れたので、その場で縁を切ってしまった。実際の託された内容は〈革命〉と呼べるほどのものでもないのだがここではその詳細は伏せる。

人ひとりの両肩は見るまでもなく大変幅の狭いものであっていくらあれこれありがたく頂戴するといっても余分なものまでは背負えず、ましてや誰しもが自分の夢でいっぱいいっぱいのこのご時世では、誰かが人から託されたものをさらに託される、すなわち又託されのような奇特なことをする御仁がいようはずもなく。きっと肩の荷は重くなるばかりだが気さえ重くならなければどうということもないと思っておくことにする。結果無理でもさらに次へとしっかり申し送りをすればいいことなのだ。こうして夢の引き継ぎが何代にわたってもなされていくことはまさに伝統である。

そんな自分に何かひとつ危惧することがあるとすれば夢託され詐欺や夢託されビジネスといったものが出ては来ないかということで、託されるふりをしてお金を得る輩もそのうち出てくるかもしれない。それでも託した気持ちになって安らかに死ねるのならばいいが子どもが少ないばかりに焦って託す相手をひとつ間違ったり見誤ったりすると安息どころか追い詰められ自死する羽目になるやもしれず昨今にもそうした有能な大人たちの悲劇を我々は見てしまっている。

ほかならぬ自分もまたそうした誤りたる相手なのかもしれないということは常に疑ってかかっておいた方がよく、相手を安心させるだけ安心させておいて裏切るということだけは何とかして避けたいものであり、何ならそのためになら適切な人に夢を再配分する夢託し屋になってもいいくらいだ。しかし託されたがらない人の多い世にあっては、その実行はおそらく夢を達成すること以上に厄介かもしれず、結局自分で何とかしてしまった方が早いというのが落ちというのもたいへん遺憾ながらまずまずありそうな話である。