銀座線の上野から浅草まで乗って5分の距離に、上野、稲荷町、田原町、浅草の駅がある。銀座線で一番乗降客が少ない稲荷町駅の出入り口は、日本で初めてこの区間に地下鉄が開通した昭和2(1927)年当時のままだそうである。地上の浅草通りから狭い階段をトントン降りるとすぐ改札、出たらそのままホームで、初めてだと拍子抜けする。さすが一番最初にできた地下鉄だ。「○○駅下車徒歩○分」という表示にうそが入り込む隙がない。ただし、相対式のホームで駅構内で行き来することができない。トイレは渋谷方面に行く1番線側のみ。今もってエスカレーターもエレベーターもない。これはかなり珍しいだろう。どんな事情があるのだろうか。銀座線は再来年までに浅草〜京橋間、東京オリンピック・パラリンピックまでに残り全駅をリニューアルするそうだ。稲荷町の出入り口や構内のリベット柱はそのまま残すと聞いた。
版画家・藤牧義夫の作品に、《地下鉄稲荷町駅出入口から見上げた空》がある。タイトルを読まなければそうだとわからないくらい、白と黒のはっきりした構成は単純だ。そうだと知って改めて同じ場所から眺めると、まるで同じではないけれども似たように単純な構図があらわれるのがちょっと可笑しくてうれしい。藤牧義夫は、1911年に群馬県の館林に生まれて27年に上京、稲荷町駅から歩いて数分の浅草神吉町に下宿。新版画集団に参加して旺盛に活動していたが、35年、24歳で突然失踪してしまう。稲荷町駅の作品は、冊子「新版画」の藤牧義夫特集号、第17号の表紙を飾っており、タイトルやNO.17の文字とのかかわりもいい。『生誕100年 藤牧義夫展 モダン都市の光と影』(2012年 神奈川県立近代美術館)の図録に〈1935年7月以前に制作〉とあいまいに記されているのは、のちに発覚した贋作問題とともに今もって失踪のいきさつが謎に包まれているからだ。
この義夫氏、四男七女の末っ子で、書画に親しみ城下町で風流に暮らしていた父・巳之七(1857〜1924)が教員を退いてから生まれている。ひじょうにかわいがられたようだが、13歳で67歳の父を亡くしてしまう。翌年高等科を卒業して、父を追悼する本の制作を思い立つ。家族などに資料収集の協力を要請し、家系図やその歴史を丹念に調べ、愛用品の模写や肖像、ゆかりの地を訪ねたスケッチのほか、父にまつわることがらをことごとく集めて父の雅号を冠した『三岳全集』『三岳画集』を完成させる。前述の図録によると、『三岳全集』は、1926(大正15)年6月完成/墨、貼込、他/私家本(洋装本仕立て)/21.8×15.3×5.5cm、『三岳画集』は、1927(昭和2)年1月1日完成/水彩、墨、貼込、他/私家本(洋装本仕立て、174図)/20.2×15.3cm、となる。展覧会では、どちらも既成の無地のノートに手描きして表紙に絵を描いたり布を貼ったものと見えた。
駒村吉重さんの『君は隅田川に消えたのか』に、この2冊についても記述がある。最後にこう書いてあったそうである。
昭和二年一月一日装訂成る。
群馬県館林町裏宿六八四番地 藤牧義夫著之。
大正十五年秋ヨ里稿を起し 昭和一年より二年に致り之著完成す。
せい姉に表紙布を戴き 画紙の大半を藤牧分福堂にて購入す
巳之七の関著は今日之を以て絶す。...著者識...
家長亡きあと藤牧家は日用雑貨品を扱う「藤牧分福堂」を営み、義夫もしばらく手伝ったようだ。『三岳画集』には父に続く家族の記録として店のことも詳しく記してあり、材料を律儀に〈購入〉したことを律儀に記すのはごくあたりまえのことだったのだろうと思える。〈画紙〉とあるから、本体は既成のノートではなくて画用紙を折って束ねてなんらかの方法で綴じたのかもしれない。〈せい姉〉がくれた〈表紙布〉というのは、スズラン柄の〈せい姉〉の着物の端切れだったかもしれない。『三岳画集』の表紙は上部を父の着物の端切れと思われる布でくるんであり、別の布から切り取ったと思われるスズランの柄をトリミングを変えて複数コラージュしてあった。2冊ともひとの指になじんでいた。こういうのをボロボロというのだろう。長く遺族の手元にあったそうである。