ドアにハンガー。外から戻ると上着をかける。ビルの一室の無彩色の小さな事務所。窓を背に机と椅子がワンセット。左右の棚には書類が整然と並んでいる。無駄なものがいかにもなさそう。その男の動きにさえも。電話が鳴った。黄色い小さなりんごをかじっていた手で受話器をとる。続いてBICのボールペンでメモをとる。役所の民生係ジョン・メイのところにはこうして管轄内の誰かがひとりで亡くなると連絡が入る。そのひとの家に行き身寄りのあてを探して、連絡をして亡くなったことを伝える。身寄りが見つかっても拒まれることが多く、その場合に代わって見送る方法が独特らしい。遺品から暮らしぶりを探り教会を選んで葬儀のだんどりを組む。そこでかける音楽をみつくろい、弔辞の原稿を作って牧師に渡し、自分がただひとりの参列者となる。ウベルト・パゾリーニ監督の『おみおくりの作法』の話。
一人一ファイルの調査資料に一枚ずつ顔写真がゼムクリップで留めてある。パスポートやスナップ、若き日の写真などさまざまだ。調査が終わると写真をはずして封筒に入れて自宅に持ち帰る。アパートのドアにもハンガー。上着をかけていつもの夕食。アイロンのきいた白いクロスをダブルクリップで留めたテーブルに、ナイフとフォーク、白いナプキン、それと、アイロン。白いお皿に魚の缶詰をそのままあけて、トースト一枚。紅茶にりんご。終えるとリビングに移って文房具が整理されたテーブルの上に青色のアルバムを広げる。ちょっとした金の装飾柄付きの。厚い台紙のページをめくって、空いたところから、持ち帰った写真を三角写真コーナーを使って貼っていく。文字を書き込むこともなく、ひとりごちるわけでもなく。一枚一枚をじぃと眺めて。
ある日電話で告げられた住所に聞き覚えがあった。自分が暮らすアパートの棟違い、ちょうど向かいの部屋である。その人と一度も会ったことはないし自宅の窓の向こうに人の気配を感じたこともないジョン・メイである。散らかった部屋に半分も埋まっていない古ぼけたアルバムが遺されていた。娘だろうか。連絡先がわかったので(写真を渡そう、新しいアルバムにして)と思いつく。そうすれば(葬儀に足を運んでくれるかもしれない)。雑貨店に行く。いろいろあるのに結局いつも使っているのと同じ青いアルバムを選ぶ。家に帰って食事を済ませてリビングのテーブルへ、いつものように。元々のアルバムに比べるとだいぶゆとりを持って貼り替えたようだ。終えて、ジョン・メイは裏窓のカーテンを開ける。灯りのないその人の部屋の窓に自分が映って見えた。
映画の佳境はこれからだが、写真をじぃと眺めながらアルバムをめくるジョン・メイさんが良かった。互いに知り合うこともなく亡くなった人たちである。ただ一冊のアルバムの中で、生前知ることもなかったジョン・メイという人になぜだか何度も何度も繰り返し見られている。その様子をみせられて、みんなひとつながりと思えた。もともとひとつながりじゃないか――。鬼海弘雄さんが浅草で撮り続けている人物写真に重なった。近著『誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録』(2015 文藝春秋)にも何人か登場している。鬼海さんの展覧会や写真集、著書を通して繰り返し目にしてきた人たちは、誰にとっても見ず知らずにもかかわらずもはや誰にとってもいとしく懐かしい人になるだろう。もとがひとつながりだったことを記憶の外から思い出す、というような。
分厚い台紙に三角の写真コーナーで貼るアルバムというスタイルは今もあるのだろうか。ちいさいころ両親がカワイイ我が子の写真を整理した分厚い台紙のアルバムを見るのが好きというか面白かった記憶がある。若い夫婦のコメントも思い出されて笑った。あれからまもなくアルバムは粘着性のある台紙にフィルムで貼るタイプに代わり、台紙を一枚ずつ買い足す「フエルアルバム」やバインダー式が増えた。「フエルアルバム」は昭和43年に現在のナカバヤシ(株)が売り出した。社長の息子がラジオのアンテナを伸ばしたり縮めたりしたことにヒントを得たそうである。同社は大正12年、図書館の本の修復や病院のカルテの製本をしていた製本職人・中林安右衛門が大阪で中林製本所を開業、昭和34年に手帳製造開始、38年に中林製本手帳(株)、45年にナカバヤシ(株)と改称。現在も製本事業を続けており、その一つとして、賞状や絵画、雑誌の切り抜き、年賀状などをまとめるサービスをうたっているのがとてもユニークだと思う。