さっそく提案書はグルリと回り、招集がかかった。
町長はじめ役場の担当者(文化財担当、企画財政)、地域アートプロジェクトリーダー、地域起こし隊支援員
そして当の宿屋の元ご主人(当時はこどもであった)が集まった。
役場のメンバーは北川フラム氏や京都芸大の先生方と瀬戸内芸術祭で大いに活躍されている若いひとたちである。いわゆる役場の人という感じより、こちらの意向をグングン汲み取っていくリキがあるのだった。が、私ははじめから瀬戸芸では何もしません!と宣言している、その上でのおつきあいがはじまっている。
公民館の一室で円卓になり、残されていた絵の来歴、いままでの町としての取り組みなど聞かせていただいた。
「猪熊(弦一郎)さんが東京の友達に電報打つて、小豆島まで呼んだんですよ」
そうなんですかぁ。
「そりゃ、みなさん喜んでました。ウチのバーさんとおふくろの接待が気に入られて」
そうなんですかぁ。
「みなさん、スケッチばかりしていたと聞いてます。宿にも絵をたくさんいただいて」
それは宿代のかわり?
「いえいえ、みなさん宿代はキマリ以上のもの払ったと聞いとります」
そうなんですかぁ。
どんな方を覚えていますか。
「猪熊さんは優しい人だった、とおふくろが言ってました」
どこまでもイノクマさんかぁ、、、。
「町でも一度、旅館に残された絵のおひろめ展示をしたことがあるのですよ、これがその時の写真です」
そうなんですかぁ。
当時、というのは戦前戦後の数年のことなのだが、そこをキッチリと記憶されている方は現在はおられないようだった。しかも投宿した画家たち、残された絵の画家たち数十人が全て頻繁に島に来ていたとは限らず、これは残されている絵から、どんなメンバーが、どんなことから彼らをして島へのスケッチ旅となったのか、読み解いて行く方法がいいのかもしれないと思った。
それから数週間後、もう一度絵を見せていただく事にした。今度は時間をかけて裏をかえしサインを確認、表裏画像に撮りそのデーターをまとめて私のPCにおくっていただくことにした。ほんというとひとりでじっくり見たかっただが、その日も若者たちはワサワサと参集、テキパキと作業してくれる。とても助かるのだが。わたしと言えば、ペッタリと床に座り込んで一点ずつ、絵に見入ること数時間。ここで大きな発見があった。向井潤吉のスケッチ(絵もサインもしっかりしていた)、宮本三郎のスケッチを数点見つけたこと。これはさっそく世田谷美術館へ画像を送り確認することができたし、彼らの資料までおおくりいただいた。あと、ないと思われていた若いときの猪熊弦一郎のスケッチを2点発見。他にこれが今の最大の謎であるが、彼らよりひと世代前の画家、つまり師匠筋の大物画家のスケッチがあるのだった。昭和7年、昭和11年の記載がある。サインも略字である。ウーン、これはまだまだ奥がありそうだ。