夜のバスに乗る。(5)「バスジャックってどう思いますか?」と僕は犬井さんに聞いた。

 小湊さんからバスジャック計画の一部始終を聞かされた僕は、夏休みの宿題を突然思い出した八月三十一日の小学六年生のような気分だった。物理的には絶対に不可能なのに、何とかなるんじゃないかと楽観的な気持ちに捕らわれていた。バスジャックをして、先生を誘拐して、湘南の海を眺めて帰ってくる。しかも、誰にも知られず、叱られず、穏やかに他人に迷惑をかけずに明日の朝を迎える。
 そんなことができるとは思えなかったが、できないと言い切れるような気分でもなかった。それに、どんなにできないと思ったことでも、小湊さんがそうしたいって言っているんだから。僕は少し小湊さんのせいにしながら、この計画を楽しみ始めている自分に気付いていた。
 しかも、こういうことは考えれば考えるだけ不安になってくる、ということくらい高校生になればわかるものだ。僕はバスが信号待ちになった瞬間に、犬井さんがいる運転席に向かった。そして、自分が迷わない間に、と意を決して聞いてみた。
「バスジャックってどう思いますか」
 僕の言葉を聞いた瞬間、犬井さんが怒り出したり、最悪、僕の手をつかんだりするようなら、この計画は最初から実現不可能なのだ。小湊さんはがっかりするだろうけれど、いっそその方が清々しい。僕だって、どうせなら小湊さんの願いを叶えてあげたいと思う。あんまりぼんやりと生きていると、すべてが中途半端にうまく行ってしまいそうで、僕は怖かった。多少の失敗にも、多少の辛いことにも目をつむってしまえば、何とか乗り切れる。実際にそうやってここまで来たような気がする。そんな時にバスジャックだ。とても穏やかにバスジャックを実行せよ、という妙な成り行きだ。これはもしかしたら、これからの僕にとってとてもいい課題なのではないかと、僕には思えた。
 犬井さんに声をかけておきながら、僕の頭のなかは、そんな勝手な言い訳でぐらぐらとしていた。すると、そんな僕を正気に戻すように、犬井さんが素っ頓狂な声をあげた。
「誰が?」
 誰が、という答えは想像していなかったので、僕はしばらくなにも答えられなかった。すると、犬井さんがさっきよりも落ち着いた声で、「誰がバスジャックするの?」と言った。
「僕たちです」
 まるで学芸会のお芝居のように大げさに視線を小湊さんに送って丁寧に返事をした。大人に話を聞いてもらうには、丁寧な言葉づかいをしないといけない。僕は犬井さんが「誰がバスジャックするの?」と答えてくれたことで、このバスジャックは決行されるのだろうと確信した。犬井さんは嫌がっていない。「僕たちです」と答えると、案の定、「高校生がバスジャックかあ、穏やかじゃないなあ」と笑うのだった。
 犬井さんはしばらく、どうしたものかと考えていたようだが、
「とりあえず、もうすぐ終点だから」
 そう僕に話しかけた。
「このバスは、今日はこのまま車庫に入れなきゃ駄目なんです。だから、終点過ぎるまでもう少し待っててもらえますか」
 犬井さんは、バスジャックの話をした後も、僕たちがお客さまのような話し方をした。きっと、癖になっていて運転席から話すときには、丁寧に話してしまうのだろうと僕は思った。僕は「わかりました」と返事をしたまま、犬井さんの隣に立っていた。すると、犬井さんは、
「このまま走って警察まで行っちゃうなんてことはしないから、座っててもらって大丈夫ですよ」
 と笑いながら、僕に言うのだった。僕は「よろしくお願いします」と言うと、小湊さんのところに戻った。
 小湊さんには、犬井さんはいい人だ、協力してくれそうだと伝えた。小湊さんはそんなこと知ってるわよ、という表情で僕を見た。
「だから、犬井さんが運転している最終バスを狙ったんじゃない」
 そう言って、小湊さんはとても楽しそうに笑った。