息子が10歳の誕生日を迎え今朝は立ち込める曇空の下、学校に誕生日祝いのチョコレートケーキ5枚、コーラとアイス・ティーのペットボトルを持参して、嬉々として小学校へ出かけました。誕生日にお菓子やプレゼントを本人が持参してクラスの友達や先生に配る習慣があるのです。
ところで、誕生日祝に息子から頼まれていた20冊余りの江戸川乱歩「少年探偵団シリーズ」と6冊の「アルセーヌ・ルパンシリーズ」は、隠しておいたにも関わらず、酷い流感でここ十日ほど臥せている間に悉く読破されてしまい、今年の誕生日プレゼントはもう終わってしまいました。明智先生を読んでいれば、隠し場所くらい先刻お見通しだそうです。
---
3月某日 仙台ホテルにて
朝7時に朝食を取り新聞を読んでいると、隣に聡明さんがやってきて暫く話す。藤田嗣治の半生を追う小栗康平さんの映画の音楽の録音。聡明さんのお祖父さん、お祖母さんがヨーロッパで研鑽を積んでいらした頃の話が面白い。パリをお祖母さんが和服姿で歩いていると、背後からパリのご婦人方が物珍しさについて来て、信号待ちをしていると、ちょいちょいと袂を引張ったりしたとか。楽譜は読んできたが、聡明さんと話して、彼の裡にある藤田嗣治像が見えてくると、音の印象はぐっと鮮明になる。
3月某日 仙台ホテルにて
海の幸山盛りの心づくしの晩飯を皆さんとご一緒してからホテル前で別れる。仙台はご飯が美味しいとは聞いていたけれど、違わず本当に美味。習慣でどうしても食後のコーヒーが呑みたくなり、道路を隔てたところにある目新しいピザ屋に足を向けるとエスプレッソがメニューに載っている。「すみません、量が半分で濃いのを一杯たててくれませんか」と頼むと、少量でどうにも申し訳ないという顔で妙齢が持ってきてくれる。
3月某日 三軒茶屋自宅にて
小栗監督の映像と聡明さんの音楽は、実に好く絡みあう。小栗さんの映像も聡明さんの音楽も、枠に嵌め込まれていない。ルーズであることは、実は想像もしない複雑さや面白さを導き、静謐は時に妖艶であったり、無言の激しさや強さが自在に混じり合う。録音を選ぶ段になって、こちらが演奏の内実したテイクを薦めると、小栗監督は寧ろ音に少し粗さの残る録音がお気に入りだった。確かに彼の好きなテイクには瑞々しい音ごとの発見があった。監督と二人で画にどう音を嵌めようかと喧々諤々やっている隣で、聡明さんは満足げに微笑んでらしたのが印象に残った。
3月某日 三軒茶屋自宅にて
杜甫二首の練習。演奏を通して各人が言葉を話し、互いに反応する。各々の創造力と理解が、音を豊かにしてゆく。音符が饒舌になれば、音楽が充実するとは限らない。譜面が饒舌なので音になって落胆することもあれば、音符が貧しくて演奏家が音楽を豊かにしてくれることもある。作曲家の責を放棄している気もするが、演奏家への信頼が先ず大前提としてある。とすれば、やはり責任放棄か。息子の誕生日祝に江戸川乱歩の少年向け小説を、店仕舞が間近の東急プラザで購う。
3月某日 渋谷トップ駅前店にて
杜甫の練習が終わって道玄坂を駅に向かって下っていると、得体の知れないインターネットサイトの宣伝カーが姦しく通り過ぎる。シューベルトの「菩提樹」が頭のなかで反芻していたので、やれやれと独りごちていると、今度は求人サイトの宣伝カーが近づいてきたので油断ならない。
渋谷スクランブル交差点の折り重なる宣伝。情報のインプットは、一定量を越せばエントロピーになり認識不能に陥る。理解しようと耳を澄まされることのない、氾濫するだけの音響は、理解への興味より寧ろ、次第に惰性で見るだけになるインターネットに似ている。惰性で享受する情報は、インターネットのように未整理のまま頭を通り過ぎて、後には何も残らない。と考えて俄然気分が悪くなるのは、自分がその張本人だから。
3月某日 三軒茶屋自宅にて
大石君が洗足でやっている、現代音楽を実践するゼミにお邪魔した。
ルネッサンス・フルートとサグバッドのために書いた二重奏の「かなしみにくれる女のように」を、オカリナ、リコーダー、ピアニカ、ギター、グロッケンシュピール、マリンバ、各種サックス、併せて10人ほどで演奏してみる。オカリナとギターが聴きとれるダイナミックスまで、皆に弱く弾いてもらう。音量の弱い楽器に耳を傾け、豊かな表情を見出すようになるのは、弱者をやさしく受け容れる態度に似ている。声を張り上げて主張するのではなく、互いに言葉を聴き取ろうと耳を澄ませば、普段は聴こえない微かな声も聴こえてくる。
並んだ音は同じ強さを繰り返さぬよう心を配る。一つ一つの音に慈しみをおぼえれば、それぞれの音に表情が見えてくる。音のそれぞれ微妙な濃淡がつくと、流れに自然に揺らぎが生まれるのは、物質にそれぞれ重さが重力と相俟って、地球上で空気が循環し、風が生まれ雲が流れ、葉がそよぐのに近い。似かよった性質の音符を均一化して操作するのは一見賢明なようだが、実は音楽を豊かにするにあたって遠回りをしているのかもしれない。それを人間の生活に置き換えてもいい。
若い学生の皆さんにとって、パレスチナもイスラエルも遠い世界の出来事に違いない。
元来同じものを共有していた仲間がそれぞれの道を進むうちに、隔たりや乖離は思いもかけぬものになる。現実をじっと見守り続け、そしてある所から改めて少しずつ寄り添おうとする態度を通し、何かを見出してくれるかもしれない。ひたむきに互いの音を見つめあう若者たちの姿に感銘を受ける。
3月某日 三軒茶屋自宅にて
「杜甫」の練習は、思いの外沢山のことを気がつかせてくれる。あまりに単純な楽譜だから、作曲者が何かを仕掛けるわけではなく、鑿と金槌だけを手渡して憚りもなく丸太を演奏者の前に置き去りにするに等しい。初めは恐る恐るであったものが、少しずつ大胆に、演奏者は造形を彫り出してゆく。我ながらこのやり方は狡いと思いつつ、思う通りの音が聴こえてきて、演奏家自身の音楽が明瞭になるのを見ると、やはりこれで良かったとも思う。音符を沢山並べて演奏者を雁字搦めにするだけが、作曲責任の完遂を意味するかも怪しい。
複雑な事象を単純な仕掛けから導く。複雑な事象を複雑に書けば酸素不足のエントロピーとなり、内部の相互関連性は消失する。それは確かに複雑かもしれないが、クセナキスのように総括的巨視的な存在意義を与えなければ、単なる音群でしかない。音を現象で論じることに興味が持てないのは、そこに生身の演奏者や聴衆を介在させる意義を見出せないから。
路地裏のパチンコの音も混じり合う渋谷のスクランブル交差点の音の氾濫を想う。ただ無意味に重なり合い、誰にも耳も傾けられぬ、現象としてぶつかり合うばかりの音。
夜半家人が帰ってきたので、自転車を飛ばして上海料理屋へ走り、紹興酒熱燗と野菜炒め。
3月某日 三軒茶屋自宅にて
朝、本当に久しぶりに西荻窪へ。何年ぶりに訪れたのか忘れたけれど、桃井4丁目裏の交差点は、昔と同じコンビニエンスストアが残っている。そこから道一本入ると、先生のお宅へ通っていた頃とは随分風景が変わっていた。「まるで昔と違うから分からなかったでしょう」。玄関先で由紀子さんは開口一番そう仰った。
桃井の辺りは311で随分被害を被って、近所の家々は軒並み建て直したのだという。幸い先生の仕事部屋は昔のままで、311で造り付けの棚から飛び出した楽譜の残りは、未だほんの少量そのままにになっていた。
先生がご自分で付けられた戒名の傍らに、分骨された小さな骨壺があって、その隣に伊豆の鯛めし弁当の空き箱を組み細工にして作った飛行機がそっと佇む。
1月10日先生の誕生日に併せた水仙の写真の前に、軽井沢の家で先生が毎年一つずつ造っていた楽焼の珈琲カップは、明るくも暗くも見える複雑な色調を放つ。
主の居ない作曲家の仕事部屋は、少し不思議な空間で妙に何か存在感がある。ピアノの横の壁には昔と同じオーケストラ楽器の巨大な音域表が貼ってあり、空虚という形容詞がおよそ反対に感じられる空間で、先生の偏食談義に大いに花が咲く。
「嫌いなものは牛肉、ラーメン、うどん。子供達は小学校に上がるまですき焼きを食べたことすらなくて。豚肉もあんまり。だからトンカツも駄目。ウナギも。オイシイのにね」。
「魚は大好き。貴方のお父さまがよく活きの良い車エビを届けて下さったわね。あれを生のまま食べるのを大層喜んでいたの」。
「貴方に謝らなければならないことがあるの。アンパサンの初演の時、私が花束を持っているのを見て、邪魔になって悪いと思ったのでしょう。わざわざ持って来てくれた花束を、さっと後ろに隠して下すったの。あの時受け取っておけば良かったと、あれからずっと思っていたのだけれど。何しろセッカチで、車は時間が読めないと言っていつも電車に乗っていたから、花束をあまり持ち歩けなくて」。
「セッカチと云えば、何時何分にご飯と言われていても、大抵5分か10分約束より前にはそそくさと食卓にやってきて、待っているのよ」。
先生が行きつけの蕎麦屋でお気に入りの鴨せいろを頂き、通われた喫茶店の決まった席で、好きだったスペイン風コーヒーを啜る。
「彼がイタリアに行った時、電車で呑みすぎて気が付いたら列車のトイレで寝込んでいたとかで、何でも目の前に沢山硬貨が散らばっていたと云うの。物乞いだと思われたのでしょうね。兎も角フランスから国境を越えた途端に青空がぱっと開けて、駅弁も信じられないくらいイタリアの方が美味しかったと繰り返していたわ」。
パリから国境を越えイタリアに入って青空が開けたと云うのなら、ジュネーブ経由でアルプスを抜けたのではなかろうか。ドモドッソラ駅を若かりし先生が酒を呷りながら上機嫌でイタリアに入ったと思うと妙に親近感が増すような気がするが、それとも一直線にリヨンからバルドネッキア経由でイタリアに入られたのかもしれない。ドモドッソラから入ったのなら当然ミラノあたりで宿を取ったに違いないが、イタリアでは好物の鴨肉やら猪肉にはありつけたのだろうか。
3月某日 三軒茶屋自宅にて
上野の文化会館で「杜甫二首」を聴く。
MFJの三浦さんがNHKの吉田さんに「杜甫」の総譜について尋ねられ、この曲は総譜がないのが良いところ、と説明して下さったそうだ。正しい演奏を測る指針もないけれど、間違った演奏も存在しないのは、悪いことではない気がする。正しい演奏を目指すほど、演奏者の本来の姿から離れてゆく場合もある。総譜がない替わりに、録り直しも繋ぎ直しもないのでお許し頂く。
兎も角、本番は各々の演奏者の世界が有機的に重なり合い紡ぎ合う、素晴らしい演奏。
丁々発止と云うと二次元的だけれども、それが三次元で有機的に相関関係を築けば、ちょうどあんな塩梅か。各人が表現したい音を、表現したいように出してくれるのなら、それに条件づけするのは極力避けたいが、どこまで音符を豊かなまま単純化できるか。
「春望」のリハーサルが終盤に差し掛かった頃、板倉さんから「この曲は中華音楽を欧州風に演奏する感じなの? それとも中華風に演奏するの」と尋ねて下さって、音像が急に具体的に纏まった気がする。幾つか試した結果「中華で行こう」が合言葉になった。
「対雪」は突き放したマドリガリズム。聴き手が言葉と音楽に反応し、自由に風景を思い描く。音楽が詩をおもねるのではなく、それぞれ聴き手が、各人の景色のなかで魑魅魍魎を思い、無常の境地に耳をそば立てる。波多野さんの指圧の先生が中国出身で「泪蛋蛋」の民謡をよくご存知で、身体を締め上げながら朗々と歌って下さったそうだ。
ユージさんに「あのピアノパートはいいね」と言われて愕く。畏れ多いと狼狽えると「まあピアニストじゃないから」と笑われる。
3月某日 ミラノ自宅
「饒舌な口上が時にとても虚しく響くように、音符を書けば書くほど、自分から遠くへゆくような気がすることもあります」と書いた。
東京現音計画のための曲あたりから、作曲の作法がドナトーニに似てきた。尤も、表面的には全く似通っていないのだけれども。
安江さんのために、前にマリンバに編曲した「朧月夜」を歌つきで演奏できるように書き直す。原曲が作曲されたのは、今からほぼ100年前の1914年。当時は未だ「朧月夜」と聴けば、どんな月明かりなのか想像がついたに違いない。「朧月」は春の季語だそうだが、あまり明確な朧月夜の映像が頭に浮かばない。
輪廓が茫とした仄かな月か、一枚ガラスを通して眺めているような、くぐもった春の月か。
3月某日 ミラノ・古代競技場通り
大石くんからサックス独奏曲の題名はと尋ねられ、スカラの学校裏の戦車競技場通り突当たりの喫茶店で暫し考えこむ。古代ローマ時代ここに巨大なトラックがあって、戦車競技をしていたとは信じられない、鰻の寝床のような古いミラノの街並みが続く。
題名のセンスは余り良くはないし普段から頓着もしないので、作品が出来上がる前に決めても影響はない。黒人霊歌の「Lay my body down」とアメリカ国歌、それからエリック・ガーナーの死にまつわる数字の羅列を素材としているので、敢えて場末の安っぽさから「禁じられた煙 Smoke prohibited」と題をつけ、彼がヤミ煙草売りの嫌疑で逮捕された場所に因んで「湾岸通りバラード」と副題を添える。この処少し寒が戻ってきたので、暖を取るべく店を出る前にサンブーカ酒を垂らしたコーヒーをぐいと呷る。
3月某日 ミラノ・トリノ通り
「最高の誕生日祝になったじゃない」。劇場に向かいながら息子に声を掛けると、「本当にそう」と弾んだ声を上げた。今日は彼が児童合唱で参加するカルメンの初日で、6時45分に集合、親は終演後の11時35分に迎えにゆくので、夕飯にトマトソースのパスタとハムとお八つを持たせるが、流石に今日は興奮して殆ど何も食べていなかった。帰り途、「今日は舞台から1列目のお客さんが良く見えた」と嬉しそう。「お年寄りばかりだった」とのこと。そりゃそうだろう、と言い掛けて、止した。
3月某日 ミラノ自宅にて
沢井さんの七絃琴のためのスケッチ。中国の七絃の古琴のヴィデオと、丘公「碣石調幽蘭」の楽譜を繰り返し眺めている。先月今月、ニューヨーク東京と続けて吴蛮の琵琶を真近で見て、特に右手の動きで学ぶところがあった。何度眺めても、幽蘭が5世紀前後の作とは俄かに信じられない。西洋音楽史の視点のみを通して世界を観ると、根本的な部分で抜け落ちるものの大きさについて思う。世界最古の楽譜の一つが遣隋使か遣唐使によって日本にもたらされ、今も残存している。朝鮮、中国はもとより、ベトナムやインド、世界各地の文化が混淆していた、当時の賑々しい日本の姿に想いを馳せる。この所の沖縄の人々とのやり取り一つを見ていても思うが、世界と情報の共有が進んだ現在、我々は何か大切なものをどこかに置き忘れてきた気もする。昔はもっと各々の個性が花開いていた世界
だったに違いない。こうしてグロバリぜーションが進み、最後に残る存在理由はどんなものか。