インド北東部シッキム州の小さな町ペリン。ここにあるペマヤンツェ寺院で僧たちによるチベット仮面舞踊を満喫したあと、ふわふわとした気分でホテルに戻る。寺からは下り坂でホテルまで20分ぐらい。お昼を食べそこねたので、泊まっているホテル・ガルーダの食堂で何か軽く食べよう。夕食はおそめにすればいいか。
「何を食べようかな‥」寒いので、あったかい汁ものが食べたい。メニューを見ているとシッキム・スープ、というのが目に留まった。おお、シッキム料理。何種類かあるので、ホテルのオーナーのチベット人お父さんに訊くと、「これがおすすめ」と言われたのがグンドラック・スープだった。インドではスープはたいがい一人前の日本のお椀位の大きさの器で出てくるので、一緒に行った友人たちもそれぞれ好きなスープを頼む。タイや中国ではスープ類を頼むと2〜4人で食べるに十分な量が出てくるのがふつうだから、はじめは戸惑う。英国式の影響か。
「あれ、この味‥」出てきたシッキム・スープは茶色く地味なルックスである。スプーンで掬うとくすんだみどりの葉っぱのような、アオサのような得体のしれないものがモロモロッと入っている。う〜む、だいじょうぶかな。しかし、一口食べると思わず声が出た。まるで、みそ汁か納豆汁かのような気配の味がする。ちょっと酸味もある。コクがあり、おいしいじゃないか。しばらく夢中でスプーンを使う。
「シッキムの味噌汁〜」「なんだろうね、この味の元は」シッキム地方には納豆もあるし、こういう味はあっても不思議ではないが、もしやこのあたりの納豆キネマ入り? ちょっと違うような。シッキムやダージリン、ネパールつまりヒマラヤ地方にある納豆キネマは、見た目は日本の納豆とそっくりだが、あまり粘らない。日本の納豆菌とは違う菌かもしれない。そして、けっこう臭い。
このスープもほのかに臭いので、納豆入りかもと思ったのだ。シッキム滞在の後、少し南のダージリンに行き、ヘイスティ・テイスティという店に行った。ここはセルフサービスの店で、カウンターで料理を注文する。やっぱり寒いので、何かスープをと思いホット&サワースープというのを頼んでみた。出てきたのはまるでシッキム・スープ。一口食べるとやっぱりシッキム・スープじゃないの。これはネパール料理だという。こちらは酢とトウガラシを入れてあってかなり酸っぱくて辛い。これもウマイです。
ダージリンの本屋でシッキムの本を買い、インドの旅からタイのバンコクに戻って暑さにうだりながら読んでいると、わずかな食べ物解説ページに「GUNDRUK」という漬物がのっていた。あれ、たしかシッキム・スープで頼んだのはグンドラックという名前だった。解説によると、大根やかぶの葉っぱや根っこ、からし菜、カリフラワーの葉っぱなどを刻んで無塩で乳酸発酵させたものだという。え、漬物ですか。何々‥発酵させた後、日干しにして保存し、スープに入れたり、ひき肉と炒めたりする、と。
あの、シッキム・スープの何とも言えないコクと懐かしい味はグンドラックという漬物から作られていたのだ。そして、まるでアオサみたいなモロモロの正体もグンドラックなのだった。このグンドラックはシッキム地方だけの食べ物ではなく、広くネパールでも食べられていて、やはり納豆キネマと同じくヒマラヤ地方の発酵食品なのである。しかも、日本の木曾地方に伝わる漬物すんき、と製法がそっくりだという。木曾地方では塩が貴重品だったことから、無塩の漬物が生まれたというが、寒さを利用して、塩分がなくても腐敗しないように工夫したものか。
グンドラックの製法は、こうだ。緑の葉野菜を刻んでカメにぎゅうぎゅうに詰め、上からお湯(30度位)をかけて密閉し暖かい場所(多くは土中に埋める)に置き、7日間発酵させる。酸っぱくなったら、カメから取りだして日に干す。出来上がったものは酸っぱくて香味がある。ミネラル、ビタミン豊富。発酵菌種はペディオコッカスおよびラクトバチルス種。製法はドイツのザウワークラウトに似る。ザウワークラウトも無塩乳酸発酵の漬物なのだ。
現在のシッキムはインドの一部だが、住民はネパール系、チベット系、そして先住民族のレプチャなどモンゴロイド系で構成される。アーリア系の血の濃いヒンドゥー世界のインドからやって来ると別世界だ。かれらは、民族の文化の違いを保持しつつも、かなり影響を受け合っている。チベット寺院でごちそうになった料理も純粋なチベット料理ではなく、ネパール料理の影響を受けたカレー風な味付けのものが多かった。ネパール族はイギリスの植民地時代に紅茶園で働く労働者としてこの地方に流入してきた。今ではシッキムの住民の7〜8割を占める。
シッキムのチベット族は17世紀にチベット仏教のゲルク派が政権を取ったチベットから移住してきたニンマ派の人々で、シッキム王国をこの地に作った。この数世紀の間にチベットのチベット族とは少し違ってきたようである。もっともチベット地方も広くて、地方によってさまざまなチベット文化があるので、シッキムのチベット人たちが特別なわけでもないだろう。
もともとこの東ヒマラヤ地方に広く住んでいたレプチャ族は、チベット人が押し寄せてきてシッキム王国を作ってしまい、山間部に追いやられ、生活様式もだんだんチベット化してしまった。ネパール族も広く食べている漬物のグンドラックや納豆、こんにゃくなどはもともとレプチャ族の文化だ。レプチャ族については日本人のルーツのひとつという説もあるほど、文化に似ているところがあるようだ。顔つきもけっこう似ている。
ちなみにうちの同居人は日本人だが、チベット人顔である。色が黒くて、鼻がわりと高くて、たれ目で目が細い。こういう顔がチベット人には多いのだ。遠い昔にチベットから祖先がやって来たのかもしれない。チベット人の主食のツァンパだって、日本の麦こがし、はったい粉を練って食べるのと同じだし。
そして、レプチャやネパーリの納豆、こんにゃく、漬物などは日本の伝統食品そのものではないか。ルーツなのか、同じような気候風土が生む類似なのかは分からないが、遠く離れたこの地で日本と同じような保存食を作って食べているというのはとても面白くて、興味深い。市場や小さなお店をのぞくたびにワクワクしてしまう。
日本に帰って来たので、グンドラックと同じ製法という木曾地方のすんき漬けを入手しようとしてみたが、1月にテレビで取り上げられて注文が殺到したとかで、どこも売り切れ。次の冬までお預けとなった。すんきに多い植物性乳酸菌が身体にいいからということらしいが、植物性乳酸菌はどこにでもいるんだけどね。