青空文庫は悪の秘密結社である――というのはもちろん暗喩であってモノの例えというやつなのだが比喩であるからにはあながち間違っているというわけでも ない。日本のインターネット普及の黎明期、開設当初の青空文庫をそのまま素直に受け入れる人もあれば拒否感を抱く者があってもやはりおかしくはない。
その保護期間が満了して著作物が公共財産になるというのは確かに法の理念としてはあっても世界じゅうを相互ネットワークでつないでデータをやりとりでき るインフラがなければ実感しづらいものであった。本の読者からすれば図書館で何頁でも本を複写できるであるとかその程度のことであって自らが本そのものを まるまるコピーしたり共有したりというのは現実の事象としてはイメージしにくいものであったのだ。
先人たちが積み上げてきたたくさんの作品のうち、著作権の保護期間を過ぎたものは、自由に複製を作れます。私たち自身が本にして、断りなく配れます。 一定の年限を過ぎた作品は、心の糧として分かち合えるのです。 私たちはすでに、自分のコンピューターを持っています。電子本作りのソフトウエアも用意されました。自分の手を動かせば、目の前のマシンで電子本が作れます。できた本はどんどんコピーできる。ネットワークにのせれば、一瞬にどこにでも届きます。 願いを現実に変える用意は、すでに整いました。
その意味では「青空文庫の提案」なる文書は「できるんだ」「していいんだ」ということを気づかせるためにはかなりの効果があった次第だが「気づかれてし まった」方としてはたまったものではないということでもあろう。著作物を複数印刷して実物を頒布流通させることで経済活動の成り立っている世界からすれば インターネットの登場で著作物が無形で自由に回りうるのは脅威であって既存の経済の枠組みを壊すものでもあってその破壊活動を推奨推進する輩は合法だろう と何であろうと敵に他ならない。むろんそれまで大して知られていなかったインターネットという存在に対する未知への恐怖もあるだろうが経済とは自身の生活 もかかった話であるから穏やかなことではない。合法であるからには今販売中のものであれ配慮はせず問答無用で電子化するという強硬な態度を取られたならそ れもまた明確な敵意であるとも感じられるだろう。
そもそもボランティアとは志がある時点で過激たらざるを得ず、なぜ自発的な無償の活動を行うかと言えば既存の経済や社会の巡りでは何かしらの不備があっ てそれを補わんと個々の人々が考えて動くからである。よく言えば改善であるが何かを変える行為には破壊がつきまとい、そこには齟齬や軋轢が常としてある。 海外の同様の運動では「知の解放」を唱えたというがそこで闘争的側面が強調されたのもむべなることであって共有の主義主張は冷戦期に恐怖された共産主義さ え思い起こさせるものだ。
青空文庫もまたしばらくのあいだ(いや今もか)陰に陽に敵視されたことはインターネット平常の光景でもあって新しいものにつきものの情景でもあるのだが 少年にとっては不良への憧れにも似てかえって魅力的でもあるのだろう。思春期には心底というよりも格好から悪ぶってみたりすることがあるわけで前節では何 かしら感動したから入ったという物言いになっているが実のところインターネット=アンダーグラウンドという当時の印象からすればこれで自分もいっぱしの悪 党であると誇らしげに思ったものである。
ボランティアを「工作員」と呼ぶのはなぜなのか、もはや誰に聞いてもわからず資料としても残っておらず調べても唐突にあるときから現れる呼称であるが少 なくともこうした状況への自虐的な反応ではあったはずで、名称を決める際にいわゆる「破壊工作」のような語感に気づかなかったわけはなく「工作員」といえ ば何らかの企みのため秘密裏に活動する人員を指すわけだが、ただし少年は東郷隆の『定吉七番』などに親しんでいたため「ああ、あれか!」とスパイアクショ ン風に面白おかしく捉えていたことは付記しておいてもよかろう。
秘密結社といえばかつてはTVの特撮娯楽番組の敵役すなわち危険な連中として知られていたが、めぐりめぐって今やもっぱらコメディの文脈で取り上げられ るに至っては崇高すぎる目的のもとに個性的な面々が集まるが毎度とにかく失敗するというグループに見事成り果てている。そして現実の世界では善意から出た 活動が団体の継続的発展や過激化によって敵視されるという顛倒が引きも切らずもはや募金や環境保護という運動はイメージの凋落が激しい。意識の高いボラン ティア活動において善と悪の価値基準とはとかく引っ繰り返りやすいものであって、あらかじめ有している破壊性をどう捉えるかによってどちらへも転びうる。
これは実際に関わるボランティアひとりひとりにも同じことが言え、ボランティア一般の話においても上げた志を下ろす者はその破壊性に気づいて活動をやめ る場合が少なくなく、ぬけたあと振り返ってみればやはり元の運動は「悪の秘密結社」然として見える。こうしたことは活動をしていくなかで醸成されていく感 覚でもあるが、理念は共通でも実現する手法の違いが浮き彫りとなるなど、ものの捉え方や考え方の差違から自省されるものであるらしく、志や意識が強ければ 強いほど運動内での内紛も苛烈であり、相手側を悪党視する圧力も高まるのだ。
しかしながらそうした争いというのは内外問わず子どもじみたものであって殊更に青空文庫を怖がる人もそうだが内側の過激なやりとりにしても秘密結社的娯 楽要素に慣れた少年からすればコメディの一シーケンスか書割りにも見えて滑稽に映る。なるほど大人の事情というものは大人が子どもっぽく振る舞ったときに 発生するものなのだと悟るに至って「悪」への憧憬はどこへやら、早々にその場から降りて自らは秘密結社の片隅にあって勝手に遊びつつ無法に実験をしまくる 吉田君か博士のようになればよいということで一匹の不真面目な工作員が出来上がった次第。