私的青空文庫のお話(1)

以前、似たような話を書いた気もするのだけれど、少し工作員から見た青空文庫を書いておくのも面白いだろうと思いまとめてみました。

そのサイトを見つけたのは偶然だっただろうか?もしくは、その頃、多かったインターネットのお役立ち情報だったのか、今となっては判然としない。3ケタには遠く及ばない冊数の書籍が登録されたそのサイトは、大型計算機のコンピュータソフトウェアを専門にした当時の私にインターネットという技術のもたらす可能性を帯びた存在のように見えた。情報の流通コストが大きく下がるというインターネットのもたらす変革は、言葉では理解したように思えても誰も体験したことのない状況はやはりやってみないとわからない。というか、新しい未来の形に少し携わりたくて、工作員の端っこに加わることになったのは20世紀の終わりのことだった。

当時のネットは今ほど当たり前のものにはなっていなくて、よくリアルとぶつかっては問題になった。青空文庫の最初の問題は、新潮社のCD-ROMから収録した夏目漱石の著作の引き上げだったのではないだろうか? 本来、著作権切れで自由に扱えるはずで、担当編集者とも話のついているはずだった夏目漱石の著作が出版社からの申し入れで一気になくなった。ただし、なくなったはずの夏目漱石の著作は底本を変えて、すぐに青空文庫に再収録されてしまった。多くの工作員がなくなったテキストの入力と校正を最優先に処理した結果、あっという間に復元したのだ。だから、この事件が青空文庫の仕組みが柔軟に動いた始まりだったようにも思う。

しかし、それでも、インターネット上のアーカイブサイトに対する風当たりは緩むことはなく、ときには出版サイドから、ときには同じインターネットのサイトから多くの風が当たることが多かった。その際、大きな後ろ盾になったのは、青空文庫の呼びかけ人諸氏が出版界とのパイプを持っていたからに違いないだろうし、ボイジャー社やDNP、筑摩書房といったネットとの付き合い方を模索されていた方たちとの付き合いの結果だろうと思っている。

今でこそ、そこにあるのが当たり前になっている青空文庫ではあるが、当時の状況では、もしかすると今の状態でも、数年先にそこにあるとは限らないというのがインターネットの世界の常識だ。だからこそ、富田氏は、アーカイブを残すことに拘っていたように思う。それは自分の仕事を絶版という決定でなくされた編集者の心だったのかもしれない。

とにかく、1000冊。今でこそもっと多くのデータが集まってはいるけれど、当時は無視できないくらいの大きな数字を残すことが青空文庫の目的とばかりに工作員ががんばっていた。(ようなきがする)

その残す中から、さまざまなジャンルへ広げていったのだけれど、その話は来月にしましょう。