ボーイ・ミーツ・ガールの物語

3月の「水牛のように」に、今年の2月に急逝したシーナ&ロケッツのシーナのことを想って文章を書いた。今回はシーナの相棒、鮎川誠のことを書きたいと思う。

4月7日、「下北沢ガーデン」というライブハウスにシーナ&ロケッツに縁のある人たちが集まった。鮎川誠が4月7日を勝手に「シーナの日」と名付けて<『シーナの日』#1〜シーナに捧げるロックンロールの夜〜>と銘打った追悼ライブを開催したのだ。ギター鮎川誠、ベース奈良敏博、ドラム川嶋一秀のシーナ&ロケッツがゲストを迎えて、シーナが好きだったパンク・ロック・ブルースを一緒に演奏し、楽しもうという一夜だ。

ゲストは、「ユーメイドリーム」「スイートインスピレーション」などシーナ&ロケッツに多くの詩を提供しているサンハウスの盟友・柴山俊之を筆頭に、仲井戸麗市、永井隆、石橋凌、花田裕之、浅井健一、チバユウスケ、金子マリ、Charなど、日本のロックをつくってきた面々だ。この企画を立ててから3週間余りだったということなので、何を置いても駆け付けたという出演者それぞれの思いが静かに積み重なって、このライブの空気を作っていたように思う。ステージ上で、みんな多くを語らなかった。ここに来て、鮎川と飛び切りのロックをぶちかます、それで充分だった。

ゲストひとりひとりを鮎川誠が紹介していく。みんな鮎川を励ますために集まって来たのに、逆に鮎川にもてなされている感じだ。シーナ&ロケッツとの出会い、共演のエピソードなどについて、彼はひとりひとり、心をこめて丁寧に紹介していく。宝物を見つけて、得意になって仲間に報告する子どものような鮎川の話し方、思いが先に溢れてしまって、言葉が追いつかないといったたどたどしさが魅力になっている語り口だ。

この日のライブは、いつものように、ロックを演奏する喜びに溢れたステージだった。「追悼」ということの特別な演出は無かった。今日仲間とロックを演奏している事、この時間が現実であり、いちばん輝かせたい全てだ。やせ我慢でもなく、自然体でそれを実現している鮎川誠の姿に心を打たれた。

鮎川自身は「ピンナップ・ベイビー・ブルース」を歌った。駅に貼られたポスターの女の子に恋をして、彼女を自分のものにしたいと思い詰める孤独な少年のブルース。糸井重里が作詞してヒットしたナンバーだ。「ピンナップ・ベイビー、ひとめ惚れ、おまえを剥がしてさらっていきたい。」という歌詞に、会場に貼られていたたくさんのシーナのポートレートを重ねて思った。

そんな鮎川の姿が心に残っていた何日後かに、ふとつけたNHKで静かに語る僧侶の微笑みに目がとまった。ベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンだった。彼はライターのボタンを押して着火し、蝋燭に火をともし、「炎を出現させるボタンを押したのは、きっかけをつくったのは私だけれど、炎はある条件が揃う事でこのように出現し、こうやってほかの蝋燭に移していく事もできる。」と語り、今度は蝋燭を吹き消して「炎は見えなくなったけれど、炎はどこにも行っていない。炎として見えていた(出現させていた)条件が変わっただけだ。でも炎はどこかに行ってしまったわけではない。生も死もこれとおなじことだ。」と語った。大切な人の死をどう乗り越えるか、その問いに対するティク・ナット・ハンの答えだった。

4月7日のラスト、アンコールも終わって最後にひとりだけステージに残って、鮎川誠は客席の方に丁寧にあいさつし、「またライブで会いましょう」と語りかけていた。鮎川誠にとって、シーナがどんなにかけがえのない相棒であったかということは、ファンならみんな想像することができる。シーナを失った後も、鮎川誠はこれまで通り仕事をして、生きていく。それを受け取ることがいちばん大切なことなのだ。

大切な人を亡くしたあとにどう生きるかなんて、その時になってみないとわからない事だ。今は、鮎川誠の振る舞いと、ティク・ナット・ハンの言葉をふたつ、覚えておきたいと思う。