長い道のり(1)

1971年9月20日、小泉よねさんの田んぼ、そして宅地と住居が成田空港の用地にかかり、強権的に代執行された。その二年後、ぼくたち夫婦が養子になった。末期の胆管ガンだったよねさんのなにがしかの力になればと思った末の入籍だった。一時的によねさんは回復したかに見えたが、その二ヶ月後に無念にも息を引き取った。

養子になったことによって、二つの裁判をかかえることとなった。一つは代執行そのものを問う「緊急裁判取り消し訴訟」、それはこちら側が原告で、被告は国と千葉県だった。もう一つはよねさんが残した畑の明け渡しを求める裁判で、こちらが側が被告で、原告は空港公団だった。

一つめの裁判は最高裁の段階で、長らく止め置かれていた。二つめの裁判は、裁判の途中で空港の開港に間に合わせるために、仮執行され、最高裁まで行ったが、こちら側が敗訴した。

二つめの裁判、よねさんの畑をめぐっての件は、空港公団の。その場所欲しさの卑劣な企みだった。よねさんが亡くなったのをいいことに、よねさんには全く権利がないとして、名義上の地主と口裏を合わせ、裁判所もそれに加担したあげくの許せない行為だった。

よねさんの畑をめぐっては裁判上はこちら側が敗けたが、ぼくは「これは冤罪行為に等しい」と声を上げ続けた。空港問題の公開シンポジウムを経て、国、空港公団側が空港建設の手法について強権的であったと、反省を述べたその流れのなかで、よねさんの畑をめぐる問題にも、もう一度光が当てられる事態となった。担当をした空港公団の職員は、よねさんの畑のいきさつに詳しい村の人々や関係者から聞き取りを行い、その結果、よねさんに権利があると認めるに至った。それらの人々の証言は裁判所にも提出されていたものだが、国策に従った司法は、全く無視していたものだった。よねさんの畑について、空港公団が非を認め、同時によねさんの代執行についても謝罪する用意があるとのことだったので、最高裁の段階で止まったままになっていた一つめの裁判についても、「和解」という形に収めることとなった。

二つの裁判で争ったことについて、国、空港公団が非を認めるという形で、こちら側の実質的承知という結果となった。その結果を踏まえて、よねさんの畑が、よねさんが眠る墓地のすぐ近くに返されるという現実的処置も、異例のこととして行われた。

小泉よね問題はそれで終わったわけではなかった。よねさんの代執行は特別な法律によって処理された。緊急的な案件なので、補償についてじっくり判断する時間がないので、仮補償で済まし、その後「遅滞なく」補償裁決をするよう求められているが、それが43年間、放置されたままになっているという問題なのだ。また仮補償において、よねさんの家を壊した補償額が約30万円と算出されたように、よねさんの生活権を全く無視した、見せしめ的な要素があからさまな点についても、大きな問題点として残っていた。

この仮補償の問題について、国と空港公団(現・空港会社)はすでに前の和解において謝罪しているが、代執行の当事者、千葉県が43年間放置していたことについて「やむを得なかった」との態度を取り続けていた。「違法確認の行政訴訟」と起こす他に方法はないと思っていた(ここまでは岩波新書『土と生きる』の「国に拠らず」という章に詳しく書いていますので、参考にしてください)のだが、長らく裁判を担ってくれた前田裕司弁護士から、違法確認の訴訟を起こせるのは起業者(空港会社)で、こちら側からは起こせないとのことだった。

法律によって、仮補償の状態では、その内容に異議があっても、訴えが出来ないことになっている。つまり、憲法によって保証されている裁判を受ける権利が仮補償のままでは奪われているのだ。だから、被収用者の権利を考えて、「遅滞なく」仮ではない補償裁決をしなければならないとされている。43年間放りされているということは、ただ単に、長い間、据え置かれているということではなく、長い間、訴えを起こす権利が奪われているということなのだ。

そういう行政の違法な行いを問う行政訴訟も、またこちら側から起こせないとは、これは権力者のやりたい放題となってしまう。前田弁護士によれば、他の訴訟の方法としては、長い間、放置されてきたことに対する精神的慰謝料を求める損害賠償請求の裁判があると言われたが、それは全く気が乗らなかった。第一、ぼく達はこのことによって損害賠償を求めるほどの精神的苦痛は受けていない。ではどうすればいいか。前田弁護士は次のように言った。「すでに和解によってこのことに対して非を認めている空港会社の人に、千葉県を説得してもらい、話し合いによって解決するという道があるのではないか」

ぼくは早速、前の和解に関わってくれた空港会社の人に、なんとか千葉県を説得して、収用委員会を開き、補償裁決を出すよう促すことは出来ないかとお願いした。しかし、千葉県の態度はかたくなだった。

千葉県の収用委員会の会長が、1988年に、反対運動を支援するグループの人に襲われるという事件があった。その後、収用委員全員が辞職し、収用委員会が空白の時期があった。16年後に収用委員会が復活したが、空港問題うぃ扱わないとの制約を設けていた。

新たに空港問題を扱わないのはいいとしても、この問題は過去のやり残しの問題であるし、きちんと後始末をつけるべきではないか、また、会長が襲われるという事件の前に、17年間の時間があったわけで、「遅滞なく」という条文からして、千葉県の責任は免れない。

その後、事態が動くようになったのは、こちら側から「協議申し入れ書」を内容証明で送ったからだった。それには、協議に参加してもらえなければ、法的措置に出ることもあると、強く申し入れてあった。

これで、国、千葉県、空港会社、ぼく達と代理人という四者がテーブルについたのだが、相変わらず千葉県は言い訳に終始し、「やむを得なかった」と弁明した。「反対運動が激しかったので、収用委員全員が開ける状態ではなかった」、「会長が襲われる事件があり、その後、収用委員全員が再開したが、成田問題は扱わないことになっている」、「この問題の審理ができるのは、空港問題の全ての用地問題が解決してから」、これではあと何年、いや何十年かかるかもしれない。

ぼく達はこの問題を次の世代に残す訳にはいかないと考えていた。最悪の場合、何十年後かに収用委員会がこの問題を審理し、裁決を出したとしても、事情を知らない次の世代では、対応が出来ないだろう。養子として、この問題を引き受けたたのは、ぼく達で、そのことを子供達に委ねる訳にはいかない。

「代執行はしておいて、その後始末が出来ないと言うのであれば、壊した家をもどしてくださいよ。元の場所にとは言わない。ぼくが住んでいる東峰に、よねさんの家をもどしてください。長い間、お世話になっている島村さんに土地をお返しして(よねさんは代執行後、島村さんの農地の一角に宅地の提供を受けて暮らし、その家をぼく達が引き継いでいる)もどしてもらった家に住むから」と、ぼくは少し、憤慨し、一回目の会合を、流した。