先に声をかけたのは犬井さんだった。
「先生、きっと大丈夫ですよ。小湊さんはただみんなで海が見たいだけなんです」
渡辺先生は犬井さんの言葉を繰り返す。
「みんなで海がみたいだけ」
「修学旅行に行けなかったから、その代わりに先生と海が見たい。それだけなんだと思います」
「だったら」
渡辺先生が言いかけると、犬井さんが笑顔で答えた。
「だったら、そう言えばいいんでしょうけどね。でも、言えなかったんです」
犬井さんにとって渡辺先生は自分の息子と同じくらいの年齢かもしれない。僕らにとって渡辺先生はとても年上の大人に見えていたけれど、こうして犬井さんと話をしている渡辺先生は、まるで犬井さんの息子のように、犬井さんの一言一言を噛みしめるように聞いている。
「どうして言えなかったんでしょうね」
「先生もご存じでしょう?」
「わかってるような気がします」
「そうです。真面目なんです、彼女」
「そうですね。真面目な子ですね」
「真面目だから」
「たぶん」
犬井さんが笑うと、渡辺先生も笑った。
「小湊は本当に真面目な子なんです」
「わかります。それで真面目な斉藤くんが選ばれて...」
「運転手さんが選ばれた」
「犬井と言います」
犬井さんは会釈をする。
「渡辺と申します」
そう言って、深めにお辞儀をする渡辺先生だが、犬井さんはそのお辞儀を辞めさせるように、渡辺先生の手を取って強く握った。僕の目の前で、犬井さんと渡辺先生が強めの握手をしている。
僕はその握手を見ていて、それまでお互いの存在を知らなかった二人の心が、突然通じ合う瞬間というものが本当にあることを知って、胸に何かがこみ上げる。
「真面目すぎて、とんでもないことをやらかしてしまう」
渡辺先生が独り言のように言う。
「そういうことなんでしょうね」
犬井さんが同じく独り言のように答える。
僕は小湊さんを見る。小湊さんはバスの前方の大人同士のやり取りを見て見ないふりをしている。
渡辺先生はさっきまでの緊張を解いた優しい笑顔で小湊さんのところへ向かった。最初はそのことに気付かないふりをしていた小湊さんだが、途中で観念したように渡辺先生に笑顔を向ける。
「先生、一緒に海に行ってください。そう言えばよかったじゃないか」
攻めるのではなく、とてもシンプルな疑問として渡辺先生が小湊さんに聞いた。
「そんなことしたら、私が先生とデートでもしたがっているようじゃないですか」
先生はしばらく考えて、そうだな、とつぶやいた。
「そうですよ。先生にそんなお願いしても絶対に一緒に行ってくれないでしょ?」
小湊さんが聞くと、先生は苦笑する。
「そうだなあ。先生も真面目だからな」
「そう。真面目すぎるから、いろいろややこしいのよ、みんな」
小湊さんはそう言うと、とても楽しそうに笑った。笑いながら小湊さんは少しだけ目に涙をためていた。