先日、約9年ぶりに能の「安宅」を生で見たので、今回はその感想。ちなみに、前回も感想:「男性群像の魅力」を2005年12月号に書いているのでご参照を。その時は、男性ばかりがぞろぞろと出てくる嵩だかさとその運動エネルギーに驚いた。今回もその点は同じだが、座った位置が違ったせいか、印象はずいぶんと異なったものになった。前回は能楽堂のかなり後ろの方の席から見たのに対し、今回は真正面の2列目と至近距離で見たのである。
山伏たちが橋掛かりから舞台へ、また舞台上をここからそこへとザザザーと列になって通過していくさま、また1人1人が順々に向きを変えていくような場面で、前回はその運動の軌跡が線としてくっきりと見えたのだが、今回はそれほどでもなかった。それは舞台が近すぎて遠近がつかみづらかったからで、空間全体を俯瞰できるくらいの位置から眺めた方が、その空間を縦横無尽に走る線が見えやすいものだと、今回あらためて感じた。ちょうど、少し距離があった方がカメラのピントが合いやすいようなものだ。
そのかわり、今回はクローズアップ写真のような臨場感があった。いや、臨場感というような客観的な感想で収まるようなものではなく、自分が当事者として巻き込まれたような感覚があった。舞台を少し見上げるので、弁慶や富樫の威容が目の前に迫っている。その背後から、まるで喧嘩を売るような激しい鼓の音が自分に向かって浴びせられるうち、富樫がふいに以前ジャカルタで一時出国時にやりあったイミグレーションの役人とダブって見えてきた。その役人はビザの手続きミス(私がそれより前に一時出国した時に、イミグレーション側が手続きを間違えていた)を見咎め、私は1時間半も足止めをくらったのだ...。そんなことを思い出すとは意外だったが、「安宅」は要は、義経狩りのために新設された出入国管理局で、弁慶が「山伏ならフリーパスのはずだと入管職員に抵抗する話なのだ。誰しも入管職員に呼び止められれば喧嘩腰にもなる。弁慶と富樫の応酬は、イミグレーションに難癖をつけられた経験のある身には全く他人事ではない。
その緊張感が最も高まったのが、富樫が酒を持って追ってきて酒盛りになるシーンだ。しかし、今まで能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」を見てきて、実はこの最後のシーンの記憶が全然ない。つまり、私はこの部分はドラマとしてそんなに重要なシーンだとは思っていなかったことになる。物語で弁慶一行が危機を乗り越えるシーンは次の3回だ。(1)勧進帳を読んでくれと言われ、弁慶がありもしない勧進帳を読み上げる、(2)変装した義経が見破られそうになったため、弁慶が義経を打擲してごまかす、(3)富樫が酒を持って詫びに来たので、疑心暗鬼ながらもその酒を受けて弁慶が舞う。この後、弁慶一行は頃合いを見計らってそそくさと去る。このうち、(1)と(2)では富樫は義経一行の行く手を遮る悪として登場する。けれど、(3)では富樫が本当に非礼を詫びたくて酒を持ってきたのか、それとも姦計を用いて状況を逆転しようとしたのか、弁慶にもそこが読み切れない。私も、富樫は舞っている弁慶に切りかかってくるやもしれないという疑念を捨てきれず、終わりまでハラハラし通した。今回初めて、「安宅」のドラマのクライマックスはこの弁慶の心理的葛藤のシーンにあるのではないかと思うようになった。そうすると、俄然、その葛藤の元凶である富樫が非常に不気味な存在として再クローズアップされてくる。面をかけていないにも関わらず、富樫の顔はまるで「能面のように」無表情で(実際の能面は表情が豊かだが...)、腹が読めない。実は、私はこの(3)のシーンだけが近代的に思われた。(1)勧進帳を読み上げたり、(2)義経を打擲したりするシーンには、どこか様式的な部分がある(たとえば、勧進帳を覗き込もうとする富樫を弁慶がひらりとかわす部分)が、(3)にはそれが感じられず、心理というものにフォーカスしているからなのだ。