海辺へ

何を恐れているのだろう
何を美しいと思うのだろう
なぜそんな夢ばかり見るのだろう
光る水にひたされて。
熔岩の岸辺は黒く、黒い砂が溜まり
土壌ともいえない砂地に
椰子の木々だけが生えていた
そよぐ木々の羽音が明るい月を呼び
空は虹と雨によりきれいに棲み分けられている
磯に立ち澄んだ海水を覗きこむと
巨大な液晶スクリーンのような画面が水中に
斜めに漂っているのだ
そこに映る風景は渦巻く緑の葉叢
心にしずかな歌が流れる
鳥たちのさえずりに借りた歌だ
サボテンの葉陰からじんじんと湧いてくるような歌。
すると緑の渦が突然に
二十歳で死んだ友人の顔に変わる
マンタのように巨大な画面いっぱいに
ともだちの曖昧な笑顔が映り
それからしゃべりだす
「用意は済んだ?
明日は日の出直前から歩き出すよ」
わかってる、とぼくは答えて
その行き先を知らないことを思い出す
塩山に行くのか干潟に行くのか
牧場を抜けるフットパスを延々と歩くのか
それともほんとうにそうしたように
土手の道を河口まで正確に10キロ歩くのか。
ああ、ああ、
ああ、ああ、
「取り返しのつかない悲哀」と
呼ぶこともできない感情が
夕日の中でふりむく犬みたいに
怒った顔をしている
そのときにはぼくはもう
靴を脱ぎジーンズをたくりあげて
少しでも画面に近づこうとしている
夕陽がガラスのように斜めにさしこみ
水面の波に薔薇色の陰影をつける。
きらめいた画像を改めて見ると
ともだちは子供に変わり
彼のおかあさんと手をつないで歩いているのだ
山並みが見える田んぼの中の道だ
鉄塔がどこまでも遠くへと並んでいる
これが日本の風景だ、とぼくは思いつつ
遠ざかる彼にむかって走り出す、追いつくために
なんという無力、いまはぼくも
小学生くらいに小さくなり
しかもどんなに両脚を動かしても
強い向かい風に動きを邪魔される。
寒くなってきた。
画面には自分の後ろ姿も映っているが
画面があるのは海中
「水面から先は過去」と
二十歳のころの彼女の声が聴こえる
「もう帰りなさい」と彼女が
初期ウォークマンの通話ボタンを使っていう。
通常の砂浜の波打ち際に立って
寒さに震えながら少し先にある家並みを見ていたら
家並みが唐突に倒壊した
黄色と緑と赤に塗られた
オランダかどこかの住宅のような並びだ
100メートルほどむこうの水面上にあったそれが
いきなり、ベニヤ板を倒すように
こちらに倒れてきたのだ
がやがやと声があがる
水しぶきと悲鳴もずいぶんあがった。
状況をよく見ていると倒れた家屋は
すべて筏のように浮かぶ足場の上にあったのだ
家屋は無人で誰も傷つかない
ところが右手からこちらにむかって
接岸しようとするフェリーボートが
そのあおりを受けて浸水したらしい
ゆっくりと沈んでゆくフェリーから
乗客たちが次々に海へと下りる
そこはもう岸辺まで25メートルもないし
水深は底の砂がはっきり見えるほど
それなのに船を下りた人たちは
冬の洋服を着たまま水に沈んでゆき
泳ごうとしては沈んでゆき
海面に長い髪をひろげている
立ったまま両腕を天に伸ばして
沈んでゆく子供たちがいる。
ああ、ああ
ああ、ああ
かれらを助けなければと思うのだが
すぐ足下からひろがる海の
透明な水の冷たさに恐れをなして
動けない
少し足を踏み出して
手を差し伸べてみるのだが
それ以上動けない
見上げると倒れた家屋の並びが
次々に火を噴き炎上しているのだ
慣性だけで進んできたフェリーボートの先端が
砂浜に乗り上げ
ボートの主甲板はもう
水面の少し下まで沈んで
船は停止した
ただ揺れている。
船で鼠捕りとして飼われていた小さなテリアが興奮して
救う相手のいない英雄のように水に飛び込み
ぼくのほうに泳いできた
ぼくは濡れたテリアを抱き上げ
夕方の中で燃える炎を見つめる。
そこからしばらく記憶が途絶えてしまったが
「気がつくと」
日本海岸を走る列車に乗っていた
その海岸線の美しさは比類ない
あそこがロシアかな、朝鮮半島かな
あそこが佐渡島かな、壱岐対馬かな
線路はぐるぐると永遠にむかって循環する
さらさらと砂のような陽光が降ってきて
まぶしいほど明るい海岸線だ
白いテーブルクロスをかけた
窓際の小さなテーブルに
ぼくはひとりで腰掛け
窓の外の海を見下ろしている
音を立てて崩れる山腹や
ぎりぎりまで渇いた後ふんだんに水を与えられる
山裾の木々を横目で見ながら
トマトジュースを飲み
あてどない考えにふけっていた。
するとほら
いきなり高い断崖になった
走る列車から藍色の海面が見える
海面にときおり光る銀の矢はトビウオ
海面をときおり乱す飛び跳ねるものはイルカたち
ゆっくりと近づき泳いでくるたくさんの光はイカ
潮を吹く鯨はまだ見えない
列車は断崖の間際を走る
見下ろせば海はやさしくしずまり
その明るい海中まで見透かすことができる
エメラルド色の海、ただし中緯度の
憂鬱さをさっぱり洗った海だ
大きな魚の群れが泳いでいるのがわかる。
「きれいだねえ」という誰かの声が聴こえる
あれはすべて鮭という説明を聞いて
気が遠くなるほどゆたかだと思った
するとケリケリの海岸を思い出した
まるで夜空に泳ぎ出すように
身軽に水の中に
体を浮かばせ
潜り
大きな海老や鮑を拾ったことがあった
取り戻すことのできないゆたかな夏。
ああ、ああ
ああ、ああ
この夕方を朝へと翻訳して
一日ごとにすごい速度で
四季を循環させ世界を回転させ
弓のように曲がった空に潰れそうになりながら
いつまでも減速中の列車は走る
海岸には海ライオンが集って
遊んだり太陽を見上げたりしている
もうどこにも行かなくていい
そろそろ波打ち際に下りてもいい
立ったまま両腕を天に伸ばして
水中から笑いながら飛び出してくる子供たちが見える