そこにあったのは、たった一本の鉛筆であった。堅くもなく柔らか過ぎることもない、ごく普通の濃さの鉛筆が一本だけ、木製の机の上に置かれていた。
その鉛筆は書かれるためにあったのだけれど、結局は書かれなかった。書くべきことはたくさんあったのに、書くための術がなく、あらゆることが捨て置かれてしまったのだった。
鉛筆はドイツ製で、日本製の見慣れた鉛筆と同じように六角形で、二センチ四方くらいの小さな箱形の鉛筆削りできれいに尖らされていて、いつでも書ける用意は万端だった。それなのに、富貴(ふき)がなにも書かずに三十台後半という短い人生を終えてしまったのは、まさにいつでも書ける用意が万端だったからだと、今になって武居(たけい)は思う。書ける用意ができているのに、書くべきことがない。それが富貴の人生なのだった。
武居が以前、同じ会社で働いていたことがある富貴の個人事務所を手伝うようになって丸一年。最初は自分の後輩の事務所を手伝ってあげられればそれでいいという先輩としての母心のようなものがあった。といっても、武居はまだ四十を過ぎたばかりで、富貴とは五つほどしか歳は離れていない。それでも、人一倍母性が強い武居と、生まれた時から父を知らず母ひとり子ひとりで育ってきた富貴とは、出会った瞬間から精神の化学反応を引き起こした。
正直なところ、富貴をよく知る者たちは「富貴くんが、年上のおばちゃんと仕事をうまくやれるとは思えない」と言い、武居をよく知る者たちは「タキちゃんは結局、自分のことで精一杯やから、年下の富貴くんの事務所のことを真剣には考えていないと思う」とつぶやくのだった。
最初は順調に見えた富貴と武居の関係だが、やがて、富貴が仕事の愚痴を吐き出すようになった。三十半ばを過ぎているのに、富貴ほど子どもじみた男はいない。富貴は毎日のように愚痴を言い続け、武居はそれを聞き続けた。普通、愚痴を聞かされ続けると人は疲弊する。しかし、武居は違ったのだった。愚痴を聞かされても平気だった。なぜなら、武居は富貴のことなど真剣には考えていなかったからだ。自分が高所に立って生きられる場所かどうか、それが彼女のいちばんの気がかりであった。だからこそ、自分より低い位置から富貴がいくら愚痴を吐いても平気だった。
むしろ、富貴に本音を吐き出させて、相手の弱みを握れるということに、武居は喜びを感じた。
富貴は自分を甘やかしてくれる武居をまるで母のように思い始めた。自分の個人事務所であるのにも関わらず、次第に自分で決断することが出来なくなりつつあった。どんなことでも、武居に相談してから決定を下した。実際には相談して、武居が下した決断を富貴が誰かに伝えるだけになった。
そんな富貴の態度にクライアントも「誰の事務所なんだ」「武居さんが来てからおかしいんじゃないか」と不快感を隠そうともしなくなり、やがて仕事は細り始めた。
そんなクライアントへの愚痴にも武居は「富貴さんは悪くない。悪いのはあいつらです」と、どこまでも富貴を甘やかした。甘やかされていることはわかってはいたはずなのだが、富貴には抗うことができなかった。
これこそ、武居の望んでいた状態なのであった。ただ富貴を意のままにして、自分が気持ちよくいられればそれでいい。そう思っていたからこそ、武居は友人にこう言い放ったのだ。
「富貴はがめつくケチな人間だからね。どうにも信用は出来ない。だから、もういいや、と思えばすぐにやめればいいのよ。お金の流れだって充分に把握してるんだから」
武居はいつも、こんなふうに悪態をつくと、最後に「でもまあ、私はみんなが幸せになってくれれば、それでいいんだけどね」と付け加えるのが常であったという。
富貴は次第に武居にとって好ましい人物を演じるようになった。ゆっくりとだが確実に、富貴は精神的に弱い人物を演じ始めた。仕事に追われたり、人とのやり取りに疲れると、武居の前でわざと大きくため息をついた。そうするだけで、武居はお茶の用意をして、甘いチョコレートのひとつも出してくれる。あとは、どんなにひどいことがあったのかを話して聞かせ、自分がどんなに精神的に弱い人間なのかを吐露すればいい。そうすれば、武居が「富貴さんは悪くない」と言ってくれる。
富貴は武居の存在が自分にとってよくないということを充分に理解していた。武居が甘えさせてくれるたびに、富貴は自分が弱くなってることを感じていた。そして、これは今までとは逆のパターンだ、と思い始めた。
それまで、富貴は年下のスタッフを採用しては潰してきた。いつも若いスタッフを入れて、中途半端な期待を掛け、少しでもその期待に答えないとわかると罵倒した。事務所を作ってたった数年ですでに五人のスタッフが彼の元を去った。結局残ったのは、年上の武居だけだった。もう一人、富貴よりも五つほど年下の男が出入りしているのだが、この男は正社員待遇でありながら「富貴と武居のやりとりは気持ちが悪い。自分のやりたい仕事が見つかったらすぐにでも辞めたい」と周囲に漏らすような男だった。これほど役に立たない信用できない男はいないのだが、富貴はこの男にも甘えていた。確実にこの男を自分よりは下の存在として見ていたのだが、好き勝手に振る舞える相手として考えていたのである。
しかし、実際には富貴のほうが愚かだった。周囲から見ていると、武居から翻弄され、年下の男から馬鹿にされ、富貴は八方ふさがりだったのだが、彼ら三人が事務所で一緒になるといつも大きな笑い声が響いた。まるで希望しかないような笑い声が響き渡り、同時に、その笑い声の空虚さに富貴自身が恐怖していたのである。
ある日、武居は富貴に心療内科へ行くように勧めた。
「私も行ってるんですよ。しんどいことがあったら迷うことなく行けば良いんです」
まるで母親が息子を心配しているかのような慈愛に満ちた声だった。そんな言葉に、富貴は、自分が精神的な病に冒されているのだと思い始めた。もちろん、武居は心療内科へなど行っていない。
富貴は翌日心療内科の門をくぐった。その瞬間に富貴は武居の共犯者になったのである。それは富貴にとって、ある意味とても喜ばしい選択であったのかもしれない。
これまでにも富貴は、困難に立ち向かうくらいなら、つぶれたいと願う癖を持ち合わせてきた。若い頃に社会に出ることを拒み、学生時代のアルバイトをそのまま継続しようと試みてバイト先の飲食店のオーナーにこっぴどく叱られたり、学校を卒業後、初めて就いた職場の先輩にきつく注意されたときにも翌日から職場を放棄した。
人当たりがよく、物怖じしない性格に見えることが余計に彼を追い詰めた。富貴ほど恐がりで、臆病で、卑怯な人間はいない。
富貴は昨日、心療内科で軽い鬱病であると告げられたことで、より卑屈な人間として開き直った。すべてを人のせいにする準備が出来上がった。同時に、自分をそんな状況に追い込んだのは武居だということは充分に理解していた。憎むべきは武居であった。
しかし、いま武居を敵にすることはできない。そんなことをしたら、自分の味方は一人もいなくなってしまう。本心からでなくても、自分の言葉に同調してくれる人間がいなくなってしまわないように、富貴は細心の注意を払った。
いま、机の上に置かれている鉛筆は、自分の個人事務所を開いたときに、富貴自身が買い求めたものだ。明るく大きな未来を夢みて、新しいノートに新しい鉛筆で、これまで誰も考えたことのない企画を書き記そうと思っていたのだった。
ところが、目の前のノートは真っ白で、鉛筆は文字を一文字も書いてはいない。
どうしてこうなってしまったのか。富貴がそう思った瞬間に、目の前の鉛筆が転がった。富貴はその鉛筆を反射的にとめた。しかし、いまの富貴に目の前の机の上にある鉛筆は重すぎた。手に取ってみようとするのだが、持ち上がらない。それでも、無理やりにつかみ、持ち上げ、鉛の芯を真新しいノートに押しつける。
武居にはいてもらわなければならない。武居がいなければ、愚痴を聞いてくれる人がいなくなる。そう思いながら、富貴は隣の机で会計処理をしている武居を盗み見る。
いったん鉛筆を手にしてしまったのだからと、富貴は武居の身代わりに潰してしまわなければならない人物の名前を書き記そうと決める。そうすれば、いま富貴の胸に沸き起こっている不安は消え去るかも知れない。そう思い、富貴は考える。
一時間考え、二時間考えても、目の前の武居の名前と、これまでに潰してきた社員たちの名前しか浮かんでこない。そして、三時間考えた頃、同じ事務所にいた武居が帰宅する時間になった。
「お疲れさまでした」
たいした仕事もしていないのに、武居が、ああ疲れた、と呟きながら事務所から出て行く。
武居がいなくなると、富貴はノートに武居と書きたい衝動に駆られる。『武居』とノートに書き記して、明日から来なくて良い、と武居に言い渡してやりたい気持ちに駆られる。しかし、書けるわけがない。いまの富貴は武居に生かされているのも同然だ。武居以外の武居の身代わりに消えればいい人物の名前を早く思いついて書かなければと富貴は焦るばかりだ。
武居が帰ってからさらに数時間、いつものように真夜中の事務所に一人で机に向かっていた富貴は憑きものでも落ちたかのように立ち上がると、荷物も持たずに明かりも付けっぱなしで事務所から出て行った。
残されたノートには、富貴自身の名前が色濃く、迷いなく書き記されていた。(了)