家族という記号

この夏は体調を崩しました。結局、この話は1か月遅れになりました。

「高杉さん家のおべんとう」というコミックが最終巻をむかえた。評判を知りたくて検索してみると、その独特の絵柄から入り込めないというコメントを見つけた。私自身は特に問題なく読めているがそうでもない人もいるらしい。という話は、実は私自身もそういう絵柄の作品をいくつも知っているのでわかる話ではある。

手塚治虫はコミックを記号と称した。記号とは、読者が作家の描いたキャラクターを通して、ある価値観を通した色眼鏡で物語を見ているという事だろう。だから、同じキャラクターを使っていても、異なる物語をそこに語ることができる。しかし、ヒロインはヒロイン、悪役は悪役の記号を見ることで芝居を感じることができるという趣向だ。だから、決して悪役がヒロインを演じることはない。

ここまで考えて、ウンベルト・エーコの記号論を思い出した。私たちは何かを見るとき、記憶や経験からある色眼鏡でものを見ることになる。私たちは記号でモノをみているのだ。

「高杉さん家」に話に戻すと、これは基本的にギャグ漫画の枠で語られるのだけれど、基本的に「家族とは何か?」を読者に問いかける。主人公は父母と妹を交通事故で一度に亡くしていた。そして、いっしょの家に住んでいた年の若い叔母さん(実は彼女は養子で血のつながりはない)に高校卒業まで育てられる。ところが、大学進学が決まった日、彼のもとを唯一の肉親であった叔母が何も残さずに去っていく。

孤独のまま大学でODをしていた彼のもとに、ある日、突然、弁護士が現れ、ひとりの中学生の女の子を連れてくる。失踪していた叔母が交通事故で亡くなり、シングルマザーだった彼女の遺志で、中学生の女の子の保護者に彼が指名されたというのだ。こんな冒頭から始まる作品は、それぞれ、肉親を亡くした面識のないふたりが家族として暮らし始める姿を描く。そのひとつの家族の象徴がお弁当という形をとっている。

ふたりを取り巻くキャラクターたちのいっしょに暮らさない肉親、全員の母が異なる家族(二男は血のつながりもない)などの家族の問題を抱えている。社会学という主人公の専門分野を絡めながら、家族とはなにか? を読者に問いかけた作品は、読者の持つ「家族」という記号に疑問を投げかける。一応の終演を迎えた作品の最後で、家族という実態の多様さを語りたかったのではないか? という思いが残った。人間は様々、同じ人はいない。たまには記号自体を疑ってみるのもいいだろう。