仙台ネイテブのつぶやき(6)深夜の避難勧告

台風18号がもたらした9月10日の雨はすごかった。午前中から降り出していた雨は夜になるとさらに強くなり、8時過ぎから、よくいわれる「バケツをひっくり返したような」状態になって、一向に弱まる気配はない。すでに常総市の被害がテレビで報道され、「線状降水帯」なんて初めてきく言葉といっしょに雨雲が東北沿岸を縦に上ってくることはわかっていたので、これは夜更かしした方がいいな、と思っていた矢先、仙台市からエリアメールが入った。

9時50分。避難準備情報だった。私のいる区も入っている。でもその先の細かい地区まではわからない。市のHPにアクセスしようとすると、集中しているのかつながらない。10時のニュースをみようとテレビをつけると、話題は日中と同じ常総市の被害状況だ。

東日本大震災の直後もこうだった。電気はとまり、携帯はつながらず、災害が起きると渦中にいる人たちが情報から取り残されるんだな、と痛感したものだ。大変なことが起きている。それなのに、何が起きているのかわからない怖さが、押し寄せる。

1時間ほどするとまたエリアメール、さらにまたメールと、着信のチャイムは鳴り続け、避難準備は、避難勧告へと変わった。これはどうしたことか。ごーっとたたきつけるような雨音の中、近くを流れる広瀬川の上流にある大倉ダムの放流を知らせるサイレンがかすかに聞こえてきた。上流ではダムの貯水量を超えるような雨が振り続いているに違いない。

ツイッターで、避難勧告の対象地区が、山間地から下流へ広瀬川沿いに移ってきているのがようやくわかった。土砂崩れを引き起こすような激しい雨が、たちまち川に流れ込み、水かさを増やしながら下流域へと押し寄せているのだ。

家から広瀬川までは直線距離にして700~800メートルくらい。いったい川はどうなっているのだろう。そうだ、と思い出したのが、県内の一級河川に取り付けられているライブカメラが、リアルタイムで川のようすを伝える国土交通省の仙台河川国道事務所のHP。映しだされた画像は、にわかには信じがたかった。最も近い広瀬橋の下を流れる水が、橋桁の高さに迫っている。いつもはおだやかな川が、コンクリートの護岸いっぱいに、草をなぎ倒し木を揺らしてごうごう流れているのだ。想像しただけで恐ろしかった。避難勧告は、すぐ近くの慣れ親しんだ町々に及び、11日の午前3時20分にはついに大雨特別警報のエリアメールが届いた。もしや、川はオーバーフローするのじゃないか、と不安がよぎる。

こんなことが起きるんだ...。不意をつかれたような気持ちで思い出したのは、戦後、毎年のように宮城を襲った台風のことだった。

昭和22年9月のカスリン台風、23年9月のアイオン台風、25年8月の熱帯低気圧...。宮城は、戦後の数年間、度重なる台風に苦しんでいて、特に25年は仙台が40年ぶりという大水害に見舞われた。同年8月5日の地元紙、河北新報は被害を「昨日まで夕涼みの人々がそぞろ歩いていた場所が四日朝には一面のどろ海となってしまった。仙台市内だけで死者三名、行方不明七名、負傷者九〇名、流失家屋五七、全耕地の七〇%冠水」と伝えている。実際、年配の人からは、「目の前を助けてくれ〜と叫びながら屋根に乗ったまま流さていったのを見たよ」とか「あーっと叫ぶ間に、目の前で橋が落ちた」とか、「坂を下ったら目の前は海のようだった」とか、いまもいろいろな話を聞かされることが多い。戦時中、山の木は燃料不足から盛んに伐採されてハゲ山となり、大雨を受けとめることができなかった、というのがその理由のようだ。

私は、この10数年、年寄りの話を聞くことを仕事の中心にしてきた。歴史を時間軸にそって系統立てて頭に入れるというのとは違った、暮らしのリアルな細部を断片的に胸に刻むみたいなことをやっているわけなのだけれど、聞いているそのときは想像が及ばずどこかもどかしい思いでいるのに、じぶんがそれに近い切迫した状況に置かれたとき、突然話がリアルさを持ってよみがえってくる。これはなぜなんだろう。いま、目の前で起きていることが時間という射程を与えられて、その意味をおのずと明らかにしてくれるような感じだ。震災後、アーカイブということが盛んにいわれるようなってきたけれど、記憶をつなぐことの大切さはこんなところにあるのかもしれない。目の前の事態を、時間の幅をもって的確に深く理解するために。

つぎつぎと避難勧告されていく地区が、戦後すぐの台風で甚大な被害を受けた地区とぴったりと重なっているのを見ながら、私は頭の中で、万が一広瀬川がオーバーフローしたときの浸水状況をシュミレーションしていた。年寄りの話は聞いておくもんだなあ。そういえば、この夏、国会前に集まった若者たちは、出征したかつての兵士たちの話に耳を傾け気持ちを揺り動かされていたっけ。

話を広瀬川に戻す。その戦後の大水害を経て、中心部の堤防建設が昭和32年に完成した。水害の恐ろしさを身をもって知った人たちは、ほっと胸をなでおろしたろう。それからほぼ60年近く、その後も何度か危険は及んだけれど、中心部はそこまで大きな大雨の被害はまぬがれてきた。およそ2世代、水害は知らずにきたのだ。まさか清流広瀬川が牙をむくなんて、ありえない。私もどこかでそう思っていた。でも今回はあやうかった。

でももはや、何でも起こりえるな、といまは思う。大津波があったのだ。また大地震も大洪水も大噴火も、きっとくる。

10日ほど経って、川沿いをまち歩きする機会があった。川沿いの木の高いところまで、流れてきたゴミが引っかかっていた。いっしょに歩いた市の職員の方に聞いたら、水は堤防の下、わずか1メートルちょっとのところまで増水したという。