百年と七十年

やっと夏が終わる、と思ったらなんだ、この暑さは。旧盆が終わり八月の末ごろから暑さもやわらぎ、吹く風も温風から本当に涼しく気持よくなったのだが、台風が接近すると湿度がこれでもか、と高くなり蒸し暑さぶりかえし、日差しも真夏に近い強さにもどる。やっとクーラーも使わず、扇風機だけで十分なところから、クーラー再稼動。本格的な夏に入る前に十九年使っていたクーラーを新しく取り替え、電気屋さんに引き取られたクーラー本体の底は錆びだらけでぼろぼろ崩れている。海の近くでなくても台風か近づけば風は潮の香り。クーラーの室外機もたまに水洗いしてあげないと。

郵便受けに国勢調査のお知らせの紙が一枚。九月半ば過ぎている。今年からインターネット回答ができる旨が書いてあるがそんな用紙は無く、調査員の訪問もなし。暫くしたらインターネットの利用案内の封筒がぶっこまれていた。封をされていない中身を見ると調査対象者ID、初期パスワードが記載された用紙が入っている。こういうIDやパスワードの記載がある書面を封をせず届けて大丈夫?それもぶっこまれたのはネット回答期限の二日前。こっちはカレンダー通りに動いていない。ましてや封も開いている。こんないいかげんなやりかたなのに、マイナンバー制度といってゆくゆくは情報管理の一元化までいって大丈夫なのか、心配になる。一番に情報セキュリティを見直さなくてはいけないのはお役所だろうし。情報セキュリティに関するISO認証をどこの役所がやっても通らないだろうなあ。

九月七日、南西諸島守備軍の降伏調印式が行われたのが七十年前。六月二十三日の慰霊の日は組織的抵抗が終わった日。小さい頃父親から北部に逃げるいきさつは聴かされた。その話の中に血なまぐさい、悲惨なものはなかった。それはあえて語らなかったのかもしれない。もう亡くなったおばさんが恩名岳を逃げて歩いている列で一人置きに機銃掃射でバタバタ倒れたこと、アメリカ軍の艦隊が海上を埋め尽くしているのを様子を伺いに見に行った知り合いのおじさんが機銃でおなかをやられて、飛び出した内臓を手に抱えながら戻ってきて、内臓を中に戻してくれ、と言いながら最後は水を欲しがり息絶えた話をしてくれた。今になってその時の詳細な事を健在な母親に聴こうとは思わない。思い出したくない話もあるだろうから、それをいまさらほじくりだして、記憶の底の底に置いてるものを詳らかにするのは気が引ける。その後収容所に入った父親は数字程度は英語が言えたので将校クラブか何かのボーイをやらせてもらうことになりその時始めてコーラを飲んだので日本で一番早くコーラを飲んだのは自分だ、と自慢していた。父親は大阪で生まれた。祖父が大工で出稼ぎのため大阪に行った。祖母は下宿屋を切り盛りしながら生活をしていたそうだ。祖父は甲子園球場建設現場も行った、と父親が言っていたが父親が生まれる前の話なので真偽はわからない。その後小学生の頃に沖縄に戻っている。父親のすぐ下のおばさんはまだまだ元気で沖縄に戻って学校に行くとランドセルを背負っていたのは自分だけだったので恥ずかしかった、と以前話してくれた。曽祖父の放蕩のおかげで田畑や家はほとんど借金で失い、父親の役目は家に借金取りが来ると畑仕事に出ている祖父母にそれを知らせることだったそうだ。今思い出せる戦後七十年、夏の高校野球百年に関わるわずかなうちの話。