1月1日:「じゃあ、ちょっと電話するわ。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい――」。
(o(>皿<)o)) キィィィ!! またかよ!!
人生を見渡してみて、記憶に新しいのは失敗や悲しみである。しかしそれらの時制はずっと古い場合もある。なぜ記憶が前後するのか。喜びや楽しさは感情の瞬発的な発露加減や派手さは一流だが、所詮は消えもの、有象無象に同化する。対するに負の記憶は、半生において確実に里程標として、見たくない色をした道標として存するからである。
ヽ(oゝω・o)-☆であ〜る!!
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(。-_-。 )ノ☆了解☆
じゃあ、伝説のおとぎ話をするぞ。えーと。むかーしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいましたか? えーと。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは山へ芝刈りに行きました。あ......。えーと。「まねすんな」とおじいさんが言うと、「まねすんな」とおばあさんも言ったのです。手つかずの洗濯物に残暑見舞いを申し上げます。
(`∀')ノお⊃かれちゃ〜ん
世界中から人間や動植物が消え失せてはじめて、心の底からの深呼吸ができるだろう。人間の分泌する感情とも、動植物が放散する風情とも、まるで関係がなくなる。深呼吸できるのはいいが、これは喜ばしい事態なのだろうか。すべてから断絶し完全に孤立した自分という有機体を人間と呼べるのか。いっぺん世界中で一人きりになる必要がある。
(‐"‐;)
1月1日:「やれやれ。松子も当てにならないな。ほんとやれやれだ。人の資質は判断力で決まるなんていうけど、俺は完全に駄目人間だな。わはは。駄目でいいよ駄目で。全然構わないよ。駄目の何が悪いんだってんだよ。誰だって欠点の一つや二つはあるだろうに。なんで判断力だけでその人全体を全否定するんだ。わけわからねえよ――」。
(`ヘ´) フンダ!!!
憤怒、不快、苦痛、心労、困難は人生において高いシェアを占める。人間に執拗なまでに付きまとう辺りからすると、他の生命体には相手にされないと見た。ところが、その程度の事象に人間は四苦八苦させられている。生とは苦であるというショーペンハウアーの言の証左となるわけだが、人間優勢に思えるのは見当違いなのだろうか。
。・:*:・゜☆ ネ兄 月劵 禾り ? ,。・:*・・゜☆
ちょん掛けでただちにまんぐり返しじゃ陰翳礼讃にもならんが、意外な進展も期待できると誰かが言ってた気がするのう。恥ずかし固めのことじゃなしに。一点突破全面展開ときた日にゃあ、きっかけなんざ待てば海路の地引網にやってくることに誰も気づいちゃいねえ。俯瞰長官のお出ましかーらーのー体育座りかーらーのーローザンヌ学派。
ヾ(@^▽^@)ノわはは
自殺への強迫観念および誘惑は思いのほか軽いものだが、決して軽んじてはいけない。生を追求・希求する人はきっとそう告げて注意を促すに違いない。だが実際に自殺するのと自殺を軽く見るのとでは、生と死ほどの距離がある。意外なことに自殺者は、その瞬間に死など頭にない。脳裏に去来するのは、全自分を軽んじる一念だけである。
ε=(・д・`*)ハァ...
しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人......。
クゥーッ!!"(*>∀<)o(酒)"