仙台ネイティブのつぶやき(8)海で働く手

友だちのことを書こうと思う。宮城県気仙沼市唐桑町で養殖業を営む菅野一代ちゃんのことだ。ここ15年ほど、私は毎年冬には、一代ちゃんと旦那さんの和亨さんがつくるカキを食べるのを楽しみにしてきた。唐桑の友人が贈ってくれるのだ。ひと粒口に含むと、ぱっと海の味が広がって、あ、唐桑の海だな、と感じる。次の瞬間、渋味を含んだ濃厚でクリーミーな味わいがやってくる。一代ちゃん、元気でやってるんだな、とエールを送りたい気分でいただく師走のごちそうだ。

最初に会ってから20年ぐらいだろうか。唐桑で「食の学校」という料理講座が始まって、その何回目かに一代ちゃんがあらわれたのだった。飛び抜けた明るさ、つけまつげパチパチ、口紅くっきり、茶髪...。何かしゃべりだすと、そのおもしろさにみんなが引き込まれてしまう。初めて会う人は、「この人、だれ?!」と聞かずにはいられなくなる、そんな人。私もそうだった。そして、こう教わった。

「一代ちゃんはね、岩手の久慈からお嫁にきたの。和さんの船が久慈に寄港したとき出会って、一目惚れだったみたいだよ」。へぇ。一目惚れってどっちが?それはいまも不明なのなのだけれど、とにかく一代ちゃんは和さんについて唐桑にきた。OLから養殖漁家への大転身。人生の大冒険のはじまりだった。

出会ったころ、すでに一代ちゃんは就学前の3人の子どもを育てる若いおかあさんだったのけれど、その横顔を見ながら私はちょっと心配だった。黙々と働く浜の人たちの中で浮いてないのかなあ、と。もちろん、唐桑の友人たちは、そんな一代ちゃんを温かく盛り立てて、「一代ちゃんの化粧は塗るんじゃないの。プリンターがあって、そこに顔を押し付けると一瞬にしてこのメイクができあがるんだよ〜」なんていって本人と笑い合っている。

それはきっと、見ず知らずの土地に嫁にきて、お舅さんお姑さんと同居しながら子どもを育て、浜のしきたりにとまどいながらも冬場は朝3時にカキむき工場に立つ、その苦労を知っていたからだ。私はそっと一代ちゃんの手を見た。いつも冷たい水にさらされているからだろう、赤くかじかんでいるような手だった。

東日本大震災の大津波は、一代ちゃんが暮らす鮪立(しびたち)にも押し寄せ、山の中腹に立つ住まいをも直撃した。唐桑には「唐桑御殿」とよばれる入り母屋造りの豪壮な家が立ち並ぶ。遠洋マグロ船で世界の海を股にかけてきた男たちが立てたマグロ御殿で、一代ちゃんの家は3階建てだ。震災のあと40日ほどして訪ねたとき、津波の破壊力に息をのんだ。

津波は1階の天井をぶち抜き、3階にまで及んでいた。玄関に入ると大きくえぐられた天井の空洞から2階の欄間がのぞき見える。一代ちゃんは、がれきが堆積する中で呆然とした表情で「使えるもの集めてんの」といいながら、朱塗りのお椀を拾っては洗っていた。第一波が引いたとき海を見にいって、第二波にのまれそうになったという。実は、このときのことは私の記憶もとぎれがちだ。美しかった浜ががれきと成り果てた光景があまりに衝撃的だったからだろうか。

カキ、ホタテ、ワカメの養殖営む菅野家にとっては、海に浮かぶイカダの流失がそれにも増して打撃だったに違いない。あとになって「あのころはね、養殖業はもうやめると思っていたの」と聞かされた。実は東日本大震災の1年前にも、三陸はチリ地震の津波被害を受けている。波高は数十センチだったが、菅野家のイカダは半数が失われ、借金をしてようやく最後のイカダを海に浮かべたのが2011年の3月10日だったのだ。「忘れない。だって、これで復活だって夜にビールで乾杯したんだもの。その翌日だったからね」と、振り返って一代ちゃんはいう。和亨さんの落ち込みはもっと深刻だったそうだ。

そこから立ち直っていくきっかけになったのは、ボランティアで浜にやってくる若い人たちを頼まれて家に泊めたことだった。泥で汚れた家に若者たちはシートを敷いて寝た。家の修復が始まり、つぎつぎとやってくる人たちとの交流の中で一代ちゃんは明るさを取り戻していく。「不思議なの。若い人の声聞いてるうちに元気になったんだよね。嫁にきてからずっと頑張ってきて、これ手放していいのかっていう気持ちになってきたの」

和亨さんにとっては、広島のカキ業者が資材を持ってイカダ復活のために駆けつけてくれたことが力になった。「宮城はライバルだが、宮城のカキがなければ広島のカキもない」。そんなことばで励ましていっしょに作業をしてくれたそうだ。応援はフランスからもきた。それは数十年前、フランスのカキが全滅したとき、宮城から種ガキを持って応援にいったことのお返しだった。海の人たちのつながりの深さには心を打たれる。海の恵みを享受しながらもときに痛めつけられる者同士の深い連帯。どんなことがあっても海に信頼を寄せ続ける者同士の強い共感。その力によって、一台、また一台と海にイカダが戻されていった。養殖業を断念する人も出る中で、菅野家はもう一度海に生きることに決めた。
 
いま一代ちゃんは、民宿の女将さんでもある。訪れたのべ1000人以上のボランティアの人たちから「また帰ってくるから、この場所残して」といわれることが重なり、傷んだ自宅を改装し、民宿として再出発することに決めたからだ。和亨さんは一代ちゃんに「おめの好きなようにしろ」としかいわなかったらしい。名前も寝泊まりする若い人たちが「つなかん」と決めてくれた。鮪立の「鮪」(ツナ)に菅野家の「菅」からとったものだ。泊り客を船に乗せてカキイカダを見せる体験ツァーも始めている。無口な和亨さんに代わって、あれこれ説明し笑わせ来場者の気持ちをわしづかみにするのは一代ちゃんだ。もちろんばっちりのメイクをキメて。

この秋、久しぶりに会って話をした。変わったなと思った。人に助けられてここまでこれた、だから聞いてほしい。伝えるべきことを胸の中にしっかりと持つ聡明な海の民─そんな印象だった。もちろん、相変わらずの弾ける明るさなのだけれど。「いろんな人が泊まるでしょ。看護師さんだの、パイロットだの...もういろいろ。どんな仕事してるの?どういう仕事なの?って聞くの好き。いままで私の話し相手はカキとホタテしかいなかったのにね〜。だから楽しいよ、ハハハ」そしてこうもういう。「前はカキむきは朝3時から。もう人を蹴落としてがんばるぞ、っていう気持ちだったけど。いまはゆったり楽しんでやればいいなって思ってる。だから朝6時からだよ(笑)」いろんなものを失って、助けられて復活できた人の達観だろうか。

話しながら私は一代ちゃんの手を見る。私の手も血管が浮いてしわが増えずいぶんとおばあさんぽくなっているけれど、一代ちゃんの手もあのころより大きく骨ばっている。カキの詰まった重いコンテナと持ち上げ、ひとつひとつカキを手にとりむいてきた働き続けてきた女の手だ。本当に本当にがんばったねえ、一代ちゃん。